「おんな城主」という事で知られていた井伊直虎。
しかし最新の発見により、実は男だったという説が出て来ましたね。
ただでさえ井伊家には色々な人がいて混乱するのに、頭の中が尚更パンクしそうですね。
そこで今回は井伊直虎の家系図を、新説や井伊家のその後も含めわかりやすく解説します!
目次
井伊直虎の家系図をわかりやすく解説。実は男だった!?
はじめに、井伊直虎の家系図を最新のニュースも含めてご紹介します。
井伊直虎は父親、井伊直盛の一人娘で、婚約者であった亀之丞(井伊直親)が死んだ(と考えた)事によって出家して次郎法師と名を改めた後、井伊家の男性がことごとく死亡した事によって「おんな城主」となり、後継者の井伊直政が成人するまでの当主として井伊家を守ってきた人物だと言われていました。
※参照:井伊直虎ってどんな人物?その生涯や子孫について!
ところが2016年12月、京都にある井伊美術館の館長である井伊達夫氏が「直虎は男であった」という資料を発見した事がニュースになりました。井伊氏によると、井伊直親死後の井伊家の領地を治めていたのは直盛の娘である「次郎法師」ではなく、直盛の妻の兄弟である関口越後守氏経の子供である井伊次郎という人物だと言うのです。とは言え、井伊次郎が「直虎」と名乗ったという証拠がある訳ではく、今後の研究が待たれる所です。
(以下では「直虎=次郎法師」説を前提として解説します)
さて、次郎法師こと井伊直虎の父親である井伊直盛は、父親の直宗が1542年に戦死した事を機に井伊家18代目の当主となった人物です。直盛は1560年の桶狭間の戦いで戦死しており、その跡を娘のかつての婚約者であった井伊直親が継いでいます。
※参照:井伊直盛ってどんな人?妻の祐椿尼についても解説!
この井伊直盛の祖父に当たるのが、井伊家16代目当主である井伊直平です。直平は井伊家の男たちが次々と亡くなる中、井伊家の存続をかけて今川家のために忠義を尽くしました。しかし最終的には今川家を裏切った武将との戦いで急死してしまい、井伊家には一時期、後継ぎとなる人物がいなくなってしまいます。このため、尼になっていた直盛の娘が井伊直虎と名乗り、活躍をしていったと言われています。
※参照:井伊直平ってどんな人?息子や墓所についても解説!
ちなみに、井伊家の初代当主は井伊共保(ともやす)という人物です。もとは捨て子だったと言われる共保ですが、遠江の国司だった藤原共資という人物の娘と結婚し、やがて井伊谷を拠点とする領主となりました。この時、共保が井伊氏を名乗った事が、その後約1000年にも及ぶ井伊家の歴史のスタートとなったのです。
井伊直虎の曽祖父、直平の息子たちの家系図について
続いて、井伊直虎の曽祖父、井伊直平を中心とした家系図についてご紹介します。
この井伊直平には長男の直宗の他、以下の子供がいたと言われています。
・女性
・南渓和尚(養子説もあり)
・井伊直満
・井伊直義
・井伊直元
まず、直平の娘ですが、実は徳川家康の正室である瀬名姫(築山殿)の母親にあたると言われています。この瀬名姫(築山殿)は、これまでは今川義元の娘だと言われていましたが、実は養女であり、本当は井伊家に関係のある女性だったという説が有力になっています。
※参照:瀬名姫(築山殿)の生涯を年表で解説。子供やその性格とは?
2番目の南渓和尚ですが、井伊家の菩提寺である龍潭寺の住職として知られている人物です。井伊家の歴史は、この南渓和尚なしでは成り立たなかったと言われる程重要な人物なのですが、直平の実子ではなく養子説もあります。
※参照:南渓和尚ってどんな人?年表や住職を務めた龍潭寺について!
直平の3男にあたる井伊直満という武将は、直虎の婚約者である井伊直親の父親にあたる人物です。この直親の家系から井伊直政が誕生しているので、今の井伊家の系統はこの直満の血を引いているという事になります。
※参照:井伊直親はどんな武将だったのか。その生涯や妻について!
そして井伊直政には男子が2人いました。江戸幕府の大老を務めたのは次男の直孝の方ですが、長男の井伊直勝の家系も江戸時代を通して存続しています。また、娘である政子は、徳川家康の四男にあたる松平忠吉の元へ嫁いでいます。
※参照:井伊直政の人物像や家紋について!家臣にはどんな人がいる?
井伊直虎と井伊家ゆかりのある人物の家系図を解説!
今度は井伊直虎の家系図を、井伊家にゆかりのある人物を交えながら見ていきましょう。
井伊直虎(次郎法師)の母親は、もともと今川家の家臣だった新野左馬助親矩という武将の妹(あるいは娘)にあたる女性です。この新野左馬助親矩は「井伊家1000年の歴史で最大のピンチを救った」人物だと言われており、その子孫は井伊家によって再興されています。
※参照:新野左馬助親矩ってどんな人?子供や子孫はいるの?
この新野左馬助親矩の妻の兄に当たるのが奥山朝利という武将です。朝利が当主を務めた奥山家は井伊家の分家だったのですが、戦国時代には画像の通り、当主の朝利が自分の娘を井伊直親をはじめ、井伊家に関係の深い様々な人物の元へ嫁がせた事で知られています。
※参照:奥山朝利ってどんな人?子供や井伊家との関わりは?
朝利の娘であるひよ(ドラマではしの)は井伊直親の元へ嫁ぎ直政を産んでますが、また別の娘が井伊家の筆頭家老、小野政直の子供である小野玄蕃の元へ嫁いでいます。小野玄蕃は桶狭間の戦いで戦死しますが、その兄にあたる小野政次は井伊家、そして直虎を苦しめ続けた武将として知られています。
※参照:小野政直(小野道高)ってどんな人?子供や井伊家との関係は?
朝利の娘は、奥山家と同じく井伊家庶流の中野家の当主、中野直之の元へも嫁いでいます。中野直之は井伊直政が徳川家康にはじめて謁見した際、彼に付き従った武将として知られています。また直之の父親にあたる中野直由は、井伊直親の後見者として小野政次の専横を不正だ事で知られています。
※参照:中野直由ってどんな武将?子供の中野直之も解説!
また、これとは別の娘が井伊谷三人衆の1人である鈴木重時の元へ嫁いでいます。鈴木重時ら井伊谷三人衆は徳川家康が遠江国へ侵攻する際、今川家から徳川家へ裏切った事で知られているのですが、肝心の重時はその戦の過程で討ち死にしています。
※参照:井伊谷三人衆とは?近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時について!
その後の井伊家はどうなった?彦根藩の家系図を解説!
最後に、井伊直虎死後の井伊家の家系図を、彦根藩の藩主を中心に解説していきます。
直虎の死後、その跡を継いだ井伊直政は、1600年の関ヶ原の戦いで受けた傷が原因でその2年後に亡くなっています。その跡、井伊家を継承したのは直政の次男の井伊直孝でした。一説によると、長男の井伊直勝は病気がちで家臣をまとめる力がなかったため、幕府の意向によって直孝がその跡を継ぐ事となったと言われています。しかし直勝の家系も江戸時代を通して存続しており、最終的には与板藩主として幕末を迎えています。ちなみに冒頭で解説した井伊達夫氏は、この直勝の家系の子孫に当たる方です。
直孝の跡を継いで3代目藩主となったのは五男の井伊直澄でした。もともとは嫡男の直滋が次期藩主になる予定だったのですが、父親と対立した事で廃嫡されています。直澄の跡を継いだのは養子で甥の井伊直興だったのですが、これは直孝の意向によるものでした。藩主となった直興は隠居して長男の直通、次男の直恒にその地位を譲りますが、この2人は共に早世してしまいます。そのため直興は再度藩主となり、同時に大老として幕府の政治を支えました。
また、直興の末子である井伊直定も、兄で8代藩主の直惟(なおのぶ)の子供たちが早世した事から2度に渡って藩主を務めています。このように、彦根藩は当主が早世するケースが多い藩だったのですが、譜代大名の中で1番石高が高い藩として、また幕府に大老を輩出する大名家として、その存在感は非常に大きなものでした。もっとも、12代藩主である井伊直幸(なおひで)に関しては、田沼意次に賄賂を送って大老にしてもらったという噂もあるのですが…
幕末の彦根藩と言えば、同じく大老になった井伊直弼が有名ですよね。直弼は13代藩主である直中の14男だったのですが、兄の直亮が亡くなり、他の兄達も養子へ行っていた事から藩主となっています。桜田門外の変で直弼が殺された後は、その息子である直憲(なおのり)が跡を継ぎました。
※参照:井伊直弼の人物像について。周囲の評判やお茶の逸話とは?
この頃の彦根藩は、安政の大獄を主導した直弼の責任を取る形で、35万石の領土のうち10万石を減封されていました。これに対して藩主の井伊直憲は幕府との関係改善に努めますが、当時の幕府は直弼が弾圧した一橋派の勢力が強まっていました。
そのため、藩内では幕府に付くか、それとも新政府に付くかという意見の対立が起こっており、最終的には鳥羽伏見の戦いで薩長側に付く事を決断します。その後の戊辰戦争でも彦根藩は活躍しており、新撰組の局長である近藤勇を捕らえる等の手柄を挙げました。
※参照:彦根藩の幕末や戊辰戦争における動向は?最後の藩主は誰?
この記事のまとめ
このページでは井伊直虎の家系図をわかりやすく解説すると共に、井伊家のその後である彦根藩についてもご紹介しました。
およそ1000年の歴史を持つ井伊家。直虎が男だったという新説も発見されており、まだまだ明らかになっていない部分は多そうですね。また井伊家には沢山の人がいるので混乱しがちです。
大河ドラマ「おんな城主直虎」を見て登場人物の関係が分からなくなった場合は、このページをもう一度確認してみて下さいね。
良いサイトに出会いました。ありがとうございます
どうしても井伊家の末裔で気になる事が頭から離れません
嘘か真かどうしても知りたいです! 現在・・・
九州に伊餘田と性を変えてお墓が二つ並んでいるらしいのですが
信じます❓
合田さま
私の父が大分県出身で、周辺に「井餘田」という姓の家が複数あります。
また、父の実家の近くに合田さまご指摘のものと思われるお墓が並んでいます。
かなり以前に親族が調べて作成した家系図には、井伊家との関係を示唆する内容が書かれていました。そこで、検索の結果このページにたどり着きました。
私は歴史に疎いうえ、その中に出てくるうちの2名ほど(天徳2年や、天禄3年と書かれています)に、「井餘田の先祖井伊(伊井)」と書かれているだけですので、何とか真実がわからないものかと思っております。
何かご存じでしたら、教えて下さいましたら幸甚です。
私が知っている範囲では、大分津久見に天理教(大元)があるらしいです
そこの姓が井餘田らしいので、そちらにお聞きしたら少しでもわかるかと思います
本当に先祖であればすごい発見ですよね!