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織田信長の城というと、あなたは何をイメージしますか?

信長は、その領土の拡張に合わせて那古屋城、清洲城、小牧山城、岐阜城、そして安土城と、自らの居城をコロコロ替えていた事でも知られている武将です。

そこで今回は、こうした信長の居城を5つまとめてご紹介します。

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織田信長がその生を受けた那古屋城


那古屋城は信長が最初に居城とした、現在の愛知県名古屋市にあった城です。

信長は1534年、この那古屋城で産まれたと言われています。もともとこの城は今川家の一族である今川氏豊の居城だったのですが、1532年頃、信長の父親である織田信秀がこの城を今川家から奪ったと言われています。その後、信秀はまだ幼い信長にこの城を譲り、自らは新しく築いた古渡城へ移動しています。

1551年に信秀が急逝した後、家督を相続した信長は引き続き那古屋城を居城としました。しかしその4年後、信長は一族の織田信友を倒した時、拠点を清洲城へ移しました。その後、信長は那古屋城を家臣に与えるもやがて廃城としています。

1609年、天下人となった徳川家康がこの地に目を付け、那古屋城跡のまわりに名古屋城を築城します。ちなみに信長の時代の那古屋城は、現在の名古屋城の二ノ丸から三ノ丸北部周辺が、その中心であったと推定されています。そして、三ノ丸に城下が広がっていたことが、発掘調査でわかっています。

織田信長が家康と同盟を結んだ事でも知られる清州城


1555年から1562年にかけて、信長が居城としたのが清洲城です。

清洲城は、現在の愛知県清須市(名古屋市の北西にある地)にあった城であると同時に、信長の時代は尾張国の中心部にあたる場所に位置していました。鎌倉往還と伊勢街道が合流する交通の要衝であるこの地は、1478年頃、当時の守護がそれまで館があった下津から清洲へ館を移した時期から、尾張の中心地として発展していきました。

信長はこの城から桶狭間の戦いに出陣したり、また1562年には徳川家康との間で清洲同盟を締結しています。信長死後も、織田家の跡継ぎを決める清州会議が行われるなど政治の舞台としての側面もありましたが、徳川家康による名古屋城の築城によって、この城は1613年に廃城となってしまいました。

現在、清州城があった地は清須公園として整備されています。
この公園からは、模擬天守や信長の銅像を見る事が出来ます。

※参照:桶狭間の戦いを簡単に説明。信長の勝因や徳川家康の動向は?

わずか4年間の間、信長の居城だった小牧山城


信長は1563年、美濃を攻略するために築城したのが小牧山城です。


この城は現在の愛知県小牧市(名古屋市の北側)に位置しており、1584年に秀吉と家康の間で行われた「小牧長久手の戦い」の際、徳川軍が本陣を置いた場所としても知られています。

この城が建てられた小牧山は、濃尾平野で唯一の独立した丘陵という特徴がありました。周囲から見ると島のような感じであるこの城はからは濃尾平野が一望でき、美濃国を治めていた斎藤氏の居城である稲葉山城の様子も伺う事が出来た事でしょう。そして1567年、美濃を制圧した信長は居城を岐阜城に移すと同時に、4年間もの間拠点としていた小牧山城を廃城にしています。

信長は小牧山城の周辺に家臣の屋敷を設置し、自らの命令に彼らが迅速に対応出来る仕組みを整えました。当初、家臣たちは長年住んでいた清州の地を離れるのを嫌がったそうですが、最終的には移転を押し切っています。発掘調査も進んでおり、2010年には「佐久間」と書かれた石材が発見され、家臣の佐久間信盛が築城を行っていたのではないかという事も話題になりました。

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織田信長が天下取りの足がかりとした岐阜城


1567年、美濃の攻略に成功した信長は居城を稲葉山城へ移すと共に、城の名前を岐阜城と改めました。岐阜という名前の由来は、古代中国の王様が岐山(きざん)という山を拠点に天下統一を成し遂げた事にあると言われており、この事から天下取りに意欲を示す信長の姿が浮かんできます。

信長の岐阜城は、山上の詰城と山麓の居館とに、大きく二つに分かれていたようです。
山麓の居館部分には、公的行事を執り行う劇場風の建物が配置され、そのほかにも御殿が建てられており、大規模な庭園がありました。山上には重層建築はなかったようですが、石垣が築かれ、現在の天守周辺に、広間や座敷がある建物があったようです。高い建物はないものの、山上からの眺めは絶景だったようです。

その後、安土城へ移った信長は、この城を嫡男の信忠へ譲っています。本能寺の変でこの親子が亡くなった後は信長の孫にあたる秀信が岐阜城の城主となりますが、関ヶ原の戦いで西軍に属した事から改易され、同時に岐阜城も廃城となりました。現在は、1910年に建築された復興天守を見る事が可能です。

天下人信長が築いた幻の居城・安土城


信長が天下人として築いた城が、この安土城です。

1576年、現在の滋賀県近江八幡市に築城が開始された安土城。信長が居城を移した背景には、京の都に近い点や上杉謙信への備えが背景にあったと言われています。工事を急がせたい信長は、築城開始から約1か月後にも、安土山麓に築かれた仮御殿に居を移して、自ら築城の指揮を取ったと言われています。

まずは天守の築城が始められ、1579年の完成の直後、信長はここに移り住みます。全体の完成までは、さらに2年かかっています。そして天守や周囲の御殿が完成すると、信長は民衆にこれらの建物の見学を許可していますので、大勢の人たちが見学に訪れたようです。平和な時代の到来を知らせるための行為だったとされています。

信長が築いた安土城は、技術的にも革新的で、その最大の特徴は石垣にあります。従来の城では石垣は土留めとして使われていましたが、安土城は石垣の上に建物を建てた最初でした。富と権力の象徴として築かれた安土城ですが、1582年の本能寺の変の後、何者かによって火を放たれて消失してしまいます。

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この記事のまとめ


今回は織田信長の居城というテーマで、以下の5つの城についてご紹介しました。

・那古屋城
・清須城
・小牧山城
・岐阜城
・安土城


信長は、城を防御施設としてではなく、見せるためのもの、権力を誇示するためのものとして築いていました。そのため防禦設備には目を向けていなかったようで、信長が築いた城は要塞としての機能はあまり優れていなかったようです。自身の居城が攻められ籠城するということが想定外だったのかもしれません。

逆に言えば、信長ゆかりの城はそれだけ他を圧倒する威厳が備わった城だったと思われます。こうした点にも、信長の斬新な発想が生かされていたと言えるでしょう。