%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_12_20_15_59 織田信長の飛躍のきっかけとなったのは、今川義元を破った桶狭間の戦いでした。

そして、後に江戸幕府を開く事になる徳川家康も、この戦いをきっかけに独立した大名になる事が出来ています。

今回は、この二人の天下人の飛躍するきっかけとなった桶狭間の戦いについて、信長の勝因や徳川家康の動向を含めてご紹介します。

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桶狭間の戦いを簡単にわかりやすく解説。


まずは桶狭間の戦いがどのようなものだったのか、簡単にご紹介します。

桶狭間の戦いは1560年に行われた、織田信長が今川義元を破った戦いです。駿河、遠江、三河の3国(今の静岡県と愛知県東部)を治めていた有力な戦国大名である今川義元を、尾張国(今の愛知県西部)を治めていた信長が破った事は、当時の大名や武将たちに様々な影響を与えました。

この年の5月12日、今川義元は織田信長が治める尾張国への侵攻を開始し、織田方の砦を次々と落としました。一方の織田方は出撃するか、それとも本拠地である清州城で籠城をするかで意見がまとまらない状態でした。しかしその後7日後、信長は突如清州城から出撃して義元の本陣へ襲いかかります。

この時は大雨が降っていて、今川方の本陣は不安定だったと言われています。そして義元の本陣を見つけた織田勢は何度も攻撃を仕掛け、ついに義元を討ち取りました。大将が死んだ事から戦意を喪失した今川方を深追いする事なく、信長は早々に清州城へ引き上げたと言われています。

※参照:織田信長が居城とした城を5つまとめて解説!

桶狭間の戦いにおける信長の勝因は何だったのか?


この戦いにおける今川方の兵力は25,000から45,000ほど。
対して織田方は多くても5,000だったと言われています。

では、桶狭間の戦いにおける信長の勝因は一体何だったのでしょうか。

よく挙げられるのが、悪天候によって今川方の本陣が乱れていた事や、信長があらかじめ今川義元の本陣が置かれていた場所を把握していたという点が挙げられます。桶狭間の戦いが行われた場所では視界がハッキリしない程の大雨が降っており、この混乱を利用して織田方が一気に義元の周辺に攻撃を仕掛けた結果、ついに大将首を討ち取ったという事がよく語られています。

また、この戦いで戦功第一とされたのは義元を討ち取った毛利新助ではなく、義元本陣の場所を報せた簗田出羽守になってる事は、巧みな情報戦を信長が行った事が織田方の勝因の証であると言われています。

これ以外には、丸根砦や鷲津砦をわざと今川方に落とさせて敵兵の疲弊を狙ったという説も語られています。また、信長が家来の忍者を農民に変装させ、彼らに義元本陣へ食料を運んで宴会を行わせたという説も、信長の勝因として昔はよく語られていました。

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桶狭間の戦いにおける徳川家康の動向は?切腹しようとしてた!?


ところで、この桶狭間の戦いには徳川家康も出陣していました。今川軍の先鋒を任されていた家康は、織田軍に包囲された大高城へ兵糧を入れることを命じられます。この作戦を成功させた後は、今川方の武将である朝比奈泰朝と共に丸根砦攻めを命じられ、これを落とすことに成功します。その後の鷲津砦の攻撃にも参加したようです。

今川義元が信長の奇襲により戦死した時期、家康は大高城で休んでいたため、信長の奇襲に巻き込まれる事はありませんでした。義元戦死の知らせを聞いた家康は、一族の菩提寺である大樹寺(だいじゅじ)に逃げ込み、祖先の墓前で切腹しようとしたと言われています。

命を断とうした家康を思い留まらせたのは、大樹寺の住職である登誉天室でした。家康は登誉天室の説得をキッカケに、乱れた戦国の世を沈める決意を固めたと言われています。そして家康はかつて松平家が居城としていた岡崎城へ戻り、晴れて今川家からの自立を実現するのです。

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この記事のまとめ


今回は桶狭間の戦いを簡単に解説すると共に、信長の勝因や徳川家康の動向についてもご紹介しました。

織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の戦い。今川義元が戦死した事によって信長は天下人への道を上り始め、徳川家康は今川家から独立する機会を手に入れる事が出来たのです。

まさに歴史上の転換点とも言えるこの戦いにおける信長の勝因は情報を上手く使いこなした事、そして天候を味方にすると言う幸運があった為と言えるでしょう、

なお、以下の記事では信長に敗れた今川義元についてわかりやすく解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。実際はどのような武将だったのでしょうか?

※参照:今川義元ってどんな人?年表や妻をわかりやすく解説!