大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公である井伊直虎ですが、領主としての能力はどの程度のものだったのでしょうか。

残された数少ない資料の中から、彼女の力量について検証してみます。

同時に、「信頼できる外部の協力者」徳川家康との関係についても解説してみました。
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井伊直虎の領主としての能力はどのようなものだったのか?


「おんな城主」というキャッチコピーが先行しがちな井伊直虎。
それでは、直虎の領主としての能力はどのようなものだったのでしょうか。

彼女が井伊家当主となった1565年当時の井伊家は、今川氏真から要求された徳政令を拒絶する事を主張するグループと、家老の小野政次や政次を支援する神官、祝田禰宜ら徳政令を受け入れるグループに割れていました。この状況は、下手をすれば今川家の影響をモロに受けてしまう状況であり、直虎の能力次第ではお家が乗っ取られてしまう事態も考えられたでしょう。

これに対して直虎は、新興商人の瀬戸方久から資金援助を取り付ける事で対抗する事で、氏真の要求を一時的にはねつける事に成功しています。しかし直虎は1568年に、徳政令発布を受け入れると共に、小野政次に居城であった井伊谷城を奪われてしまいます。それでもその2年後、徳川家康の力を借りる形で井伊谷城を奪還して小野政次を処刑する事に成功しています。

これ以外にも、直虎は当主となった1565年の9月、大叔父の南渓和尚が住職を努める龍潭寺の領有を自らの印を用いて確認したり、曽祖父の井伊直平の母体を弔うために福満寺に鐘楼を寄進するといった宗教的な政策も行っています。ただこの点は直虎個人の能力に見る目があったと言うよりかは、一族の南渓和尚の助言が大きかったとも考えられます。

井伊直虎が領主を努めていた井伊家は一歩間違えれば滅亡する状態にあったところを、直虎は切り抜ける事に成功しました。こうした事跡を踏まえると、井伊直虎の領主としての能力は中々のものだったと考えてもいいのではないでしょうか。

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井伊直虎と徳川家康の関係はどのような間柄だったのか?


先ほど、直虎は徳川家康の力を借りる事で井伊谷城を奪還した事について言及しました。
では、家康と直虎の関係はどのような間柄だったのでしょうか。

まず、この2人は血の繋がりはない親戚と言う事になります。なぜなら直虎の曽祖父にあたる井伊直平の娘が、後に徳川家康の正室となる瀬名姫(築山殿)を産んでいるからです。直虎と瀬名姫の関係については「おんな城主直虎」では言及されているものの、実際の交友関係に関する資料は残されていません。

※参照:井伊直虎の家系図を解説。井伊家のその後も気になる!

また、直虎にとっての家康は「信頼できる外部の協力者」といった存在だったのではないでしょうか。1570年に小野政次から井伊谷城を奪還した直虎でしたが、その2年後に今度は武田家によって井伊谷城を奪われています。しかし1573年、信玄が死去すると直虎は井伊谷城を再度奪還しています。この時、武田家と戦っていた徳川家康に何らかの力を借りたのかもしれませんね。

そして直虎は1575年に、井伊家の後継者である虎松(井伊直政)を徳川家康の近習として取り立てる事に成功しています。ただこれは直虎個人の能力というより、大叔父の南渓、そして直虎の母である祐椿尼や、直政の母のひよとの間で進められた出来事だったと言われています。

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この記事のまとめ


井伊直虎の領主としての能力を、徳川家康との関係にも触れながらご紹介しました。

こうした事跡を見ると、直虎の領主としての能力は中々のものだったと考えてもいいでしょう。大叔父の南渓和尚や親族に頼る部分も多かったのでしょうが、一歩間違えれば滅亡もありえた井伊家を存続させ、後継者の直政に渡したその手腕は非凡なものだったと感じます。

なお、以下の記事では直虎がその生涯を通して頼りにした南渓和尚について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:南渓和尚ってどんな人?年表や住職を務めた龍潭寺について!