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平等院鳳凰堂といえば、多くの人が10円玉に描かれた建築物を思い出すのではないでしょうか?
遠足や修学旅行で訪れ、10円玉と見比べながら見学したという人もいる一方で、どのような建物なのかを説明するのは案外難しいかもしれません。

池の中で翼を広げたような、優雅な外観の平等院鳳凰堂は藤原道長の子、頼通によって建てられました。藤原頼通はどんな人だったのか?平等院鳳凰堂とはどのような建物なのか?頼通が鳳凰堂を作った理由にも迫ります。
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藤原頼通ってどんな人?わかりやすく解説!


まずは藤原頼通がどんな人だったのかを、簡単にご紹介します。

藤原頼通は992年に、藤原氏の全盛期を築き上げた父、藤原道長の長男として生まれました。当時の道長は自分の娘を天皇の妃にし、生まれた皇子が天皇になったとき、摂政や関白として天皇の政治を助ける「摂関政治」で権力を握っていました。1017年、頼通は26歳のとき、道長から摂政の職を譲られ、後一条天皇の摂政として権力を継承します。二年後には関白となりましたが、引退した道長は1027年に亡くなるまで朝廷内で影響力を持ち続けます。

※参照:藤原頼通が摂政や関白でしたことを解説。平等院鳳凰堂や和歌についても

1036年、後一条天皇が亡くなり、弟の後朱雀天皇が即位。自分も父・道長にならって娘を天皇に嫁がせよう…と、いきたいところですが、じつはこの時、頼通には天皇に嫁がせることのできる娘はいませんでした。苦肉の策を講じ、妻の妹で皇族の嫄子(げんし)を養女に迎え、後朱雀天皇の妃にします。しかし、源子は皇子を生むことはありませんでした。

1045年、後朱雀天皇が亡くなると、あとを継いだのは後冷泉天皇。後朱雀天皇と道長の六女・嬉子(きし)との間に生まれた皇子です。また、藤原氏とは外戚関係(母方が藤原氏出身であること)にない尊仁親王が皇太子となります。1050年、頼通は一人娘の寛子(かんし)を後冷泉天皇に嫁がせますが、ついに子には恵まれませんでした。

天皇に嫁いだ自分の娘が皇子を生み、その子が天皇になること」が摂関政治で権力を握る絶対的な条件です。頼通はその条件をクリアすることができなかったのです。

頼通が父・道長の別荘を寺院に改めたのは1052年のこと。1067年には弟の教通に関白を譲っています。翌年には後冷泉天皇が亡くなり、藤原氏と血縁的なつながりの薄い尊仁親王(後三条天皇)が即位。藤原氏のしがらみのない天皇は、政治の実権を藤原氏から取り戻そうとします。頼通は1072年に出家し、2年後の1074年に病気で亡くなりました。

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平等院鳳凰堂はどんな建物?当時は別の名前だった?


藤原頼通と言えば、父、道長と共に藤原氏の全盛期を築いた事で知られますが、これとは別に世界遺産にもなっている平等院鳳凰堂を作った事でも知られています。ここでは、この平等院鳳凰堂について簡単にご紹介します。

平等院鳳凰堂はもともと、998年に藤原道長が建てた「宇治殿」と呼ばれる別荘でした。1052年、頼通は別荘を寺院に改修し「平等院」とします。そして翌年、阿弥陀如来像を安置するために阿弥陀堂を建立します。この阿弥陀堂が、江戸時代になってから「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのです。

つまり当時は、「平等院鳳凰堂」という呼称は存在しなかったという事です。頼通は阿弥陀如来のいる極楽浄土の世界を表現するためにこのお堂を建てましたが、その外観が伝説上の鳥「鳳凰」が翼を大きく広げたような様子だったので、このように呼ばれるようになったのです。ちなみに江戸時代までこの建物は、単に「阿弥陀堂」または「御堂」と呼ばれていました。

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※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/平等院

この鳳凰堂は池の中にある島の上に建てられており、建築物の前に庭と池が広がっています。
お堂の中心となる中堂には阿弥陀如来像が安置され、建物内には極楽浄土を表現した絵や装飾が施されています。また、鳳凰堂の外観や池、庭園も建物内と同じく極楽浄土を体現したものです。つまりこの鳳凰堂は、阿弥陀如来や極楽浄土を具体的にイメージするための場所だったという事です。

藤原頼通が鳳凰堂を作った理由について。末法思想とは?


では、なぜ藤原頼通はこの鳳凰堂を作ったのでしょうか。その理由を解くカギは、頼通が道長の別荘を寺院に改修した1052年という年にあります。

平安時代の後半に大ブームになった考えに「末法思想」というものがあります。末法思想とは、釈迦が死んで2000年後にその教えが衰え、世の中が乱れる「末法の時代」が始まるという当時流行した考え方です。そしてこの1052年こそ、この末法の時代が始まる年とされ、人々は不安を募らせていました。

末法思想にビクビクしていたのは頼通ら貴族も同じで、その多くは自らが極楽浄土へ行くために阿弥陀如来像を安置するための建物を作っていました。その背景にあったのは源信という僧が著した『往生要集』という仏教書です。

源信はこの中で、「浄土教の修行をすれば、西方にある極楽浄土に生まれ変わる事ができる」と説き、具体的な修行として、念仏を唱えること、極楽浄土での生まれ変わりを願い、その世界をイメージすることを挙げています。頼通はその教えを実践し、極楽浄土をイメージする練習をするために、阿弥陀堂=鳳凰堂を作ったのです。

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今回のまとめ


藤原頼通がどんな人だったのか、平等院鳳凰堂がどのような建物なのかを中心に、頼通が鳳凰堂を作った理由についてもご紹介しました。

藤原氏による摂関政治は、この頼通の代でその全盛期を終えます。その後も朝廷に影響力を及ぼした事は変わりはありませんが、地方では武士が台頭し、治安も乱れるようになります。

こうした世の乱れによって多くの人に末法思想が受け入れられ、貴族も庶民も極楽浄土での生まれ変わりを願うようになった背景と言えるでしょう。

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