貼り付けた画像_2016_09_07_16_27 あなたは島津家についてどのような印象を持ちますか?

戦国時代に活躍した島津四兄弟、あるいは幕末に西郷隆盛や大久保利通を輩出した薩摩藩の殿様というイメージが強い方が多いのではないかと思います。

今回は、この島津家の家系図を、薩摩藩の歴代藩主を中心に簡単に解説します。

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戦国時代の島津家の家系図は?


まずは薩摩藩島津家の家系図を、戦国時代に遡って簡単に見ていきましょう。

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薩摩藩の成立は1600年、初代藩主である島津忠恒(島津家久)が徳川家康から本領発揮を認められた事に遡ります。忠恒の父親、島津義弘は関ヶ原の戦いにおいて当初は東軍に属するつもりだったものの、参陣を断られた事でやむなく西軍に属します。

※参照:島津義弘と関ヶ原の戦い。甥の豊久や立花宗茂との逸話とは?

しかし薩摩藩本国では息子の忠恒、そしは義弘の兄で忠恒の妻の父である島津義久が義弘への援助を一切行わない状態が続いていました。このため義弘はわずか1000人の兵士を率いて戦わざるを得なかったものの、最終的には何とか戦場を離脱して薩摩へ帰国しています。

※参照:島津義久ってどんな人物?年表や島津義弘との関係について!

この義弘と義久、そして弟にあたる島津歳久と島津家久の「島津四兄弟」は、戦国時代において島津家を九州の覇者へと押し上げた一族でした。しかし末弟の家久は若くして亡くなり、三男の歳久も豊臣秀吉に歯向かった事から切腹を命じられています。また家久の長男で日向国(今の宮崎県)佐土原城主である島津豊久も、関ヶ原の戦いで伯父の義弘の身代わりとなって討死しています。

※参照:島津家久ってどんな人物?その強さや死因に迫る!

豊久には子供がいなかったため、四兄弟の父親の島津貴久の甥にあたる島津以久がこの佐土原城を継承し、後に佐土原藩の初代藩主となり、薩摩藩とは別の形で幕末を通して存続する事となりました。
また島津歳久の女壻・忠隣は豊臣家との戦いで戦死するも、その子供である島津常久は日置(ひおき)島津家の祖となり、その系統は今に至るまで続いています。

薩摩藩島津家の歴代藩主の家系図を見てみよう!


続いて、薩摩藩島津家の歴代藩主の家系図を、簡単にご紹介します。

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薩摩藩の初代藩主である島津忠恒。もともとは父親の島津義弘の三男だったのですが、兄たちが早世した事により家督を継承する事となりました。藩主としては琉球王国への侵攻や鹿児島城の築城、外城制(とじょうせい)という薩摩藩独自の政治システムを導入し、藩の基礎固めを行っています。

※参照:薩摩藩の領地や人口はどれ位?島津家の家紋についても解説!

2代目の藩主、島津光久は38年間も薩摩藩を支配し、また子供が38人も居たと言われている人物です。そのために3代目の藩主となったのは孫にあたる綱貴でした。また、4代目藩主である吉貴は「越前家」「今泉家」といった分家を創設し、本家が断絶した時はこの両家から次期藩主を輩出する仕組みを整えた事で知られています。

その後、薩摩藩は藩主が相次いで若くして亡くなりますが、8代目藩主である島津重豪(しげひで)は89歳に亡くなるまでその実権を握り続けました。重豪は蘭学への関心が高かった事から「蘭癖大名」と呼ばれており、これは11代藩主である斉彬にも強い影響を与えました。

その一方で、息子で跡継ぎの島津斉宣とは対立しており、実の息子を強制的に隠居させ孫にあたる斉興に継がせたものの、その影響力は彼が亡くなるまで続きました。

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幕末の薩摩藩島津家の家系図を解説。天皇陛下との関係は?


最後に、幕末に関する島津家の家系図を簡単にご紹介します。

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1833年、島津重豪が亡くなるとようやく斉興はようやく藩政を行う事が出来ます。しかし斉興は長男で周囲からの評価が高い島津斉彬を嫌っており、寵愛する側室の子供である島津久光を跡継ぎにしようとします。しかし藩内には斉彬を推す者も少なくなく、その跡取り争いによって薩摩藩は混乱。幕府の仲介で斉興は隠居し、斉彬が藩主になる事となります。

※参照:島津斉彬の父親や妻について解説。子供はいたの?

晴れて藩主となった斉彬は、父・斉興の弟で今泉家島津家の当主であった島津忠剛(ただたけ)の長女である篤姫を江戸幕府13代将軍、徳川家定に嫁がせる事で幕政に介入しようとします。しかし1858年に斉彬は急死。その跡は甥の島津忠義が藩主となる事となりますが、藩の実権は忠義の父、島津久光が握る事となりました。

※参照:篤姫ってどんな人?年表や西郷隆盛との関係を解説!

明治時代になると、島津久光は自分の息子たちに島津家の分家を継承させたり、新たに玉里島津家を起こしたりしています。また薩摩藩最後の藩主である忠義の俔子は皇族の久邇宮邦彦王と結婚。その第一王女にあたる良子女王は昭和天皇の元へ嫁ぎ、香淳皇后と呼ばれる事となります。つまり今の天皇陛下にとって、島津忠義は曽祖父に当たる存在なんですよね。

※参照:島津久光ってどんな人?西郷隆盛との関係や子孫について!

この記事のまとめ


今回は、薩摩藩島津家の家系図について、戦国時代末期や幕末の島津家の様子をピックアップしながら簡単に解説しました。

鎌倉時代から薩摩の地を治めていた島津家。一族同士の対立が全く無かったとは言えないとはいえ、今に至るまでその子孫を残しているその歴史からは、一族の結束力は非常に高かったのではないかと思います。戦国時代でも幕末でも、島津家は魅力的な人物が多いため、一人一人どのような人物だったのかを探っていくのも面白いと思いますよ。

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