%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_19_21_02 歴史の教科書によく出て来る鎌倉幕府室町幕府、そして江戸幕府
よく似た名前だな~だけど一体何が違うんだろう?ややこしすぎ!
・・・なんて事で悩んだ経験はありませんか?

このページでは、名前は知ってるけど違いが分からない鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の特徴や、それぞれの違いをまとめて詳しくご紹介します!

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鎌倉幕府の特徴とは?「御恩と奉公」って?


まずは鎌倉幕府について、その特徴と共にご紹介します。

鎌倉幕府は1185または1192年に、源頼朝を創設者として成立した武家政権です。
設立年は「イイクニ(1192)作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えた方も多いかと思いますが、いろいろな説があり、その中で現在では1185年が実質的な設立で、1192年は源頼朝が征夷大将軍に就任した年という考え方が採用されています。

※参照:鎌倉幕府の年表や役職を解説。場所やその跡地にも迫る!

鎌倉幕府の特徴として代表的なのが御家人制度です。これは幕府の頂点にたつ鎌倉殿(将軍)とその家来である御家人との間に取り決めたギブアンドテイクのような約束で、この両者の関係は「御恩と奉公」と呼ばれています。

御恩とは、鎌倉殿が御家人に与えるもので、先祖代々の領地を支配することを保障したり、新たな領地を与えたり、地頭に任命したり、朝廷の官職等に推薦したりなど。
奉公とは、御家人が鎌倉殿に対してやることで、合戦で鎌倉殿のために戦ったり、京都大番役、鎌倉番役など、鎌倉幕府の重要機関で一定期間働いたり、朝廷や幕府の建物などの建築や修理をするなど。

また鎌倉幕府の仕組みとしては、将軍の下に執権をおいて、執権が将軍を助け、幕府の全体の政治を行い、執権の下に鎌倉、京都、地方を治める各役所や役職が置かれました。

鎌倉幕府が滅亡に至った背景としては、御恩と奉公のバランスが崩れたことがあげられます。
鎌倉時代中期におこった中国大陸の大国・元の襲来によって、御家人たちは攻めて来た元軍を追い払うために出陣します。しかし戦争にかかる費用は御家人たちの負担で、死傷者なども出るのに、外敵を追い払っただけなので、恩賞として新たな領地などを貰えるワケでもなく、御家人たちは困窮して、鎌倉殿への不満をつのらせました。

また、幕府の実権を握り続けた執権・北条家はこの頃になると遊びや贅沢に夢中で政務を怠けていた人物が当主になっており、これに対して反北条の御家人たちが、幕府を倒そうと画策していた後醍醐天皇を支持して北条氏と戦い、鎌倉幕府は1333年に滅亡しました。

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室町幕府の特徴とは?滅亡したのは1573年ではなかった!?


続いて室町幕府について、その特徴などと共にご紹介します。

室町幕府は1336年に足利尊氏によって京都に設立された武家政権です。第3代将軍・足利義満が京都の室町に「花の御所」とよばれる豪華な邸宅を構えて政治を行った事から、室町幕府と呼ばれるようになりました。

※参照:室町幕府が京都に置かれた理由とは?仕組みや税制度も解説!

室町幕府の特徴としては、財政や軍事力が鎌倉幕府や江戸幕府に比べ劣っていたことがあげられます。というのも実権を握った一族が鎌倉幕府の北条家や、江戸幕府の徳川家のように初代からの流れを受け継がず、室町幕府で実権を握った今川・畠山・斯波・細川・一色といった大大名は足利尊氏を始祖とする流れではありませんでした。そのため血筋による結びつきが弱く、中央に強大な権力を集めることが難しかったのです。室町幕府は将軍の力が弱く、有力な守護大名の連合政権のような形でした。

また、幕府の仕組みは鎌倉幕府にならったもので、鎌倉幕府の執権にあたる役職が室町幕府の管領になります。この管領の下に政所・問注所・侍所が置かれ、地方機関として鎌倉府・九州探題などがおかれ、地方には守護・地頭をおきました。

室町幕府が滅亡に至った背景は、もともと将軍の権力が弱い政権で、有力大名の力が増してきて戦国時代となり、幕府の組織を維持することが難しくなって消滅したと言えます。
1553年8月には、13代将軍・足利義輝が三好長慶に敗れて近江国に逃れたのち、1558年11月に和議を結んで京都に戻るまでの期間、三好長慶によって将軍を擁立しない独自の政権が打ち立てられた時期もあり幕府の衰亡が進んでいきます。

滅亡年は1573年7月に織田信長が15代将軍・足利義昭を京都から追放した時、とするのが一般的ですが、義昭はその後も将軍の位を奪われたわけではなく、信長の勢力が及ばない地方においては、将軍としての権威を保っていました。その後、1588年に関白・豊臣秀吉に従って忠誠を誓うまで征夷大将軍であったと『公卿補任』に記録があることから、1588年を室町幕府の滅亡年と考える見方もあります。

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江戸幕府の特徴とは?幕藩体制や身分制度、大名統制について!


最後に江戸幕府の特徴や仕組み、滅亡に至った背景などを見ていきましょう。

※参照:江戸幕府を小学生向けにわかりやすく解説。年表や安定した理由は?

江戸幕府は1603年に徳川家康が征夷大将軍となり創設した武家政権で、明治維新までの約260年間も続いた日本史の中でもっとも長命な政権です。江戸幕府が直接支配する領地は約400万石で、幕府直参の旗本領とあわせると約700万石となり全国の石高の約4分の1を占め、また大阪・京都・長崎などの都市や佐渡金山・石見銀山などを直轄地にして、貨幣の鋳造権も独占し、圧倒的な経済力をもち政権を維持しました。

そして江戸幕府の特徴としては、幕藩体制、身分制度、大名統制などが挙げられます。

幕藩体制とは、将軍と全国各地の大名が主従関係を結び、全国を幕府の領地と各大名の領地に分けて、将軍を頂点とした幕府と各藩による支配体制のことです。
身分制度とは、人々を職業により武士、町人、百姓に区別し、武士は社会を支配する身分で、苗字を名乗り、刀を持つことが許されました。町人とは職人や商人、百姓とは農業や漁業、林業に従事する人々のことで、それぞれの身分によって住む場所も決められました。また総人口の約8割を占める百姓は年貢の取り立てがあり、この年貢が財政の基盤になっていました。
大名統制とは、大名の反逆を防ぐため、全国の大名を親藩・譜代大名・外様大名に分けて、各地に配置し、武家諸法度できびしく取り締まると共に、参勤交代を義務づけて余分な財産を蓄えないようにしました。また、朝廷や寺社を取り締まる法律ももうけて、権力の増大を防ぎました。

江戸幕府の仕組みは将軍の下に老中・若年寄・大目付や寺社奉行・町奉行・勘定奉行などをおき、譜代大名や旗本など徳川家により近い、信頼のおける家臣がこれらの要職につきました。また権力が特定の人物に集まらないように、月番制や合議制を採用し、老中の上に大老をおくこともありました。

そして、江戸幕府が滅亡に至った背景は、代々続いた徳川将軍家の人材の不足や、鎖国政策により世界の産業革命の波に乗り遅れた点が挙げられます。強大な国力を誇る欧米列強からの開国要求に従わざるを得なくなり、幕府が行なった安易な開国政策にたいして、日本各地で賛否が分かれました。そして時代に先んじた人材を育成していた薩摩・長州の志士たちが先頭をきって倒幕の動きが強まり、幕府の衰退が目立つようになり、1867年に15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上したことにより江戸幕府滅亡となりました。

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この記事のまとめ


鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の特徴と、それぞれ違いをご紹介しました。
最後に、それぞれの違いをもう一度、簡単に振り返ってみましょう。


・鎌倉幕府
源頼朝が創設者、成立年は1185年または1192年
御家人制度や「御恩と奉公」という関係が特徴
将軍のもとに置かれた「執権」が政治を行った
御恩と奉公のバランスが崩れ、1333年に滅亡した

・室町幕府
足利尊氏が1336年に京都で創設した
有力な守護大名との連合政権みたいなものだったのが特徴
管領のもとに様々な役職が置かれていた
有力大名の台頭によって組織維持が困難になり1573年に滅亡

・江戸幕府
徳川家康が1603年に設立した日本史の中で最も長命な政権
幕藩体制や身分制度、大名統制を主な特徴とする
約400万石を支配する将軍のもとに老中などの役職が置かれた
人材不足や欧米列強の開国欲求、倒幕運動によって1867年に終了


これで、3つの幕府の違いはもうバッチリですね!
テスト勉強などで迷ったら、このページを何回も読み返してみて下さい!