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歴史の教科書でよく出て来る源平合戦

源義経の活躍に心躍り、その最後に涙した方も少なくないと思います。

ですが、源平合戦ではどのような出来事があったのか?と言われると、そう簡単には答えられないですよね。今回は源平合戦を年表を使いながらわかりやすく解説すると共に、この時代を代表する5人の女性たちについてもご紹介します。

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源平合戦をわかりやすく解説。いつの出来事なのか?


まずは源平合戦がどのような戦いだったのか、わかりやすく解説します。

源平合戦とは、武家の棟梁である源氏と平家との間で、1177年から1185年にかけて日本全国で起こった数々の戦争の総称です。一般的には「治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)」と呼ばれる事もあります。また1156年の保元の乱から、1192年の源頼朝の征夷大将軍への就任までの時期を指す事もあります。

源平合戦のきっかけとなった「保元の乱」では、崇徳上皇と後白河天皇が皇位継承をめぐる争いに源氏、平氏の軍事力を使い、結果としてこの2つの武家は中央政界での地位を確立します。その4年後に起こった「平治の乱」では、平家のトップだった平清盛が源氏のトップだった源義朝を破り、これによって源氏は一時期衰退します。

その後、力を強めた平家でしたが、これに反発する勢力も多く現れました。1180年には以仁王(後白河上皇の子)が平家の討伐を全国の武士に命じた事を機に、義朝の子である源頼朝が挙兵します。一時期は平家に敗れた頼朝ですが、その後は順調に勢力を伸ばし、鎌倉を中心に東日本を勢力下に治めました。

そして、弟の源義経の活躍もあり、源氏は一ノ谷の戦い、屋島の戦いで平家を破っていきます。そして1185年、壇ノ浦の戦いで源氏は平家を滅ぼす事に成功しました。こうして源平合戦は源氏の勝利で終わり、名実と共に武家のトップとなった源頼朝は鎌倉幕府を開き、1192年には征夷大将軍に就任する事になるのです。

※参照:一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いの違いをわかりやすく解説!

源平合戦を年表にしてわかりやすく解説!


ここでは、源平合戦の年表を出来るだけわかりやすくまとめてみました。


・1156年
保元の乱が起こる。崇徳上皇と後白河天皇の争いに源氏、平家が加担する。
天皇側が勝利し、平清盛と源義朝はそれぞれ恩賞を与えられた。

※参照:平清盛って何した人?清盛がしたことを簡単に解説

・1159年
平治の乱がが起こる。保元の乱の戦後処理に不満を抱いた藤原信頼と源義朝が挙兵。
清盛の反撃により、信頼・義朝は敗死します。

・1160年
義朝の子、源頼朝が捕らえられ伊豆へ流される。

・1167年
平清盛が武士としてはじめて太政大臣に就任する。

・1180年
平清盛の娘が産んだ安徳天皇が即位し、清盛は天皇の外祖父になる。
以仁王が平家討滅の令旨を発し、源頼朝と木曽義仲が挙兵する。

・1181年
平清盛が熱病によって亡くなる。

・1183年
倶利伽羅峠の戦いが起こる。義仲軍が平家軍を破り、京を制圧する。
平家は安徳天皇を連れて都落ちをする。
京都にいた後白河法皇と木曽義仲が対立する。

・1184年
宇治川の戦いが起こる。源義経が木曽義仲を撃破する。
一ノ谷の戦いが起こる。義経が断崖を逆落としして急襲し、平家軍を攻略する。

・1185年
屋島の戦いで源氏が勝利する。弓の名手・那須与一が扇の的を射たことで知られる。
壇ノ浦の戦いで源氏が勝利する。
この戦いで平家は事実上滅亡し、源平合戦に終止符が打たれる。

・1192年
源頼朝が征夷大将軍に任命される。

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源平合戦における女性の活躍、知ってますか?


ところでこの源平合戦には、女性の活躍が多く見受けられます。
ここでは、歴史の渦に身を投じながらも懸命に生きた女性を8人見ていきましょう。

【平時子】
平時信の娘で、平清盛の後妻(継室)となります。二条天皇の乳母となるなど、清盛の宮中工作の橋渡し役となりました。清盛の死後、平家一門を後見しますが、壇ノ浦の戦いで平家が敗れると幼い安徳天皇を抱き入水して果てます。

【由良御前】
源義朝の正室で、頼朝の母親にあたる女性です。尾張国にある熱田神宮の宮司の家に産まれており、保元の乱では実家の手勢を夫に援軍として送ったと言われています。頼朝は3男にも関わらず昇進が早かったのですが、その背景には由良御前が持つ「家柄の高さ」があったと言われています。
※参照:源頼朝の母親はどんな人?3人の乳母についてもわかりやすく解説

【常盤御前】
近衛天皇の中宮に仕えた女官で、義朝の側室となり牛若(のちの源義経)らを産んでいます。義朝の戦死後、子らを守るために平清盛の妾となったともいわれ、その後藤原(一条)長成に嫁いだとされています。

【平滋子(建春門院)】
平時信の娘で、時子の妹にあたります。後白河法皇の寵愛を受け、後の高倉天皇を産みました。1176年に35歳で亡くなりますが、その死は平家と後白河法皇の間に亀裂を生む事となります。

【八重姫】
源頼朝の最初の妻。父親は伊豆配流中の頼朝の監視役であった伊東祐親です。頼朝の子・千鶴丸を産むも、平家の怒りを買うことを恐れた父の祐親に反対され頼朝と離縁させられ、子供は殺されてしまいます。

【北条政子】
源頼朝の正室。父親は北条時政で、義時は弟にあたります。頼朝に嫁し、2代将軍・頼家、3代将軍・実朝を産んでいます。実朝が暗殺されると京から九条頼経を招き自ら後見人となりました。尼将軍と呼ばれます。

【巴御前】
源義仲の乳母の子で、中原兼遠の娘といわれています。義仲の側室となり、1180年の義仲の挙兵に従軍。戦功著しい猛将だったともいわれています。

【静御前】
白拍子・磯禅師の娘でおなじく京の白拍子でしたが、源義経の側室となります。平家討滅後、頼朝と不和となった義経に従い京を脱出します。追手に迫られ吉野山中で別れた後、囚われて鎌倉に送られます。頼朝から舞を命じられ、義経を恋い慕う踊りを披露しています。

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この記事のまとめ


今回は、源平合戦について年表も使いながらわかりやすく解説してみました。

天皇系の争いの中で台頭した源氏と平家。その後は当主である平清盛が天皇の外祖父のとなるほど力を強めますが、その死後は源頼朝、そしてその弟の源義経によって滅ぼされています。その義経も、やがて兄である頼朝により死に追いやられ、征夷大将軍として武家のトップとなった頼朝ですら配下の御家人に暗殺されたのでは?という説が根強く残っています。

以下の記事では、源頼朝の死因を暗殺説を含めて検証しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:源頼朝の性格や家紋を解説。死因は暗殺だったのか?

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