鎌倉幕府の創設者・源頼朝の父親といえば義朝ですが、母親は由良御前(ゆらごぜん)という人です。
この由良御前という女性について、このページではわかりやすく解説してみました。
また、頼朝の母親代わりにもなった、3人の乳母についても見ていきましょう!

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源頼朝の母親・由良御前ってどんな人?


源頼朝の母親である由良御前(ゆらごぜん)は、頼朝の父親、源義朝にとっては正室にあたる女性です。2012年の大河ドラマ「平清盛」では女優の田中麗奈さんが演じられていた事で、覚えておられる方もいるかもしれませんね。

由良御前の父親は尾張国(今の愛知県)にある熱田神宮の大宮司を務めた藤原季範(ふじわら の すえのり)という人物です。この熱田神宮は三種の神器の1つ・草薙剣を祀る神社として知られており、また戦国時代には織田信長が桶狭間の戦いの前に戦勝祈願した神社としても有名ですね。

※参照:桶狭間の戦いを簡単に説明。信長の勝因や徳川家康の動向は?

頼朝は父親・源義朝にとっては3男にあたりますが、2人に兄より早く官職に任命されており、父からは後継者扱いを受けていたと言われています。これは由良御前が持つ「熱田神宮の娘」という家柄の高さによるものとされており、当時の熱田神宮の人々は後白河法皇や法皇の家族に仕える人々が多く、その影響力は小さくなかったようです。

由良御前は1145年ごろに義朝と結婚したとされており、1147年には頼朝が産まれています。頼朝以外には義朝の4男にあたる希義(まれよし)や坊門姫を授かっていたと伝わっています。1159年の3月、平治の乱の9ヶ月前に由良御前は亡くなってますが、頼朝はわずか12歳で両親を亡くしていることになりますね。

ちなみに、頼朝の兄弟といえば源義経が有名ですが、義経は由良御前の子供ではありません。実は義朝には数多くの側室がいて、義経はそのうちの一人・常盤御前との間の子供あたります。頼朝と義経は母親違いの兄弟ということになりますね。

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源頼朝の3人の乳母について見てみよう!


当時「乳母(めのと)」と呼ばれる若君の養育係を任される女性がいました。
今でいう産婆さんとは認識がちょっと違いますね。

源氏の棟梁の後継者にあたる頼朝にも、乳母という存在がいました。
比企尼(ひきのあま)、寒河尼(さむかわのあま)、山内尼(やまのうちのあま)という3名の女性が頼朝の世話をしたと言われています。
この3人の女性について、その実の子供たちも見ていきましょう。

比企尼 伊豆時代の頼朝を20年近く支えた女性

比企尼伊豆時代の頼朝を20年近く支えていた乳母として知られる人物です。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では女優の草笛光子さんが演じられてますね。
比企尼は、若くして両親を亡くした頼朝にとって母親代わりと言っても過言ではない存在だったのかもしれません。

頼朝が伊豆へ流罪となった時、比企尼は京都から領地である武蔵国比企郡(現在の埼玉県中部)に戻り、その後20年間援助を続けたと言われています。また尼には3人の娘がいましたが、それぞれ安達盛長、河越重頼、伊東祐清に嫁いでいます。このうち安達盛長の娘は頼朝の弟である源範頼に、河越重頼に娘は義経の妻となっており、源氏の比企氏の関係の深さが伺えます。

一方、尼には男子はいなかったので、甥にあたる比企能員に家督を継がせました。能員は娘を二代将軍・頼家に嫁がせてますが、比企尼の次女、三女も頼家の乳母になった事で知られています。また次女の夫でる源範頼が頼朝から謀反の疑いをかけられた際は、自身のひ孫でもある範頼の2人の男子の命乞いを行い、これを出家という形で頼朝に認めさせた記録が残されています。

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寒河尼 頼朝の姉代わりの存在?後に「女地頭」にも

3人の中で、寒河尼は唯一生没年が分かっている(1137〜1228年)女性です。頼朝の9歳年上のため、乳母というより姉という立場で接していたのではないかと言われています。

京都で産まれた寒河尼は近衛天皇に女房として仕えた後、下野の豪族・小山政光の妻となり、政光との間に1168年、結城朝光(ゆうき ともみつ)という武将を産んでいます。朝光は1180年に頼朝を烏帽子親として元服しており、翌年には北条義時らと共に頼朝の寝所を警護する名誉ある役割に任じられています。
※参照:北条義時ってどんな人?年表や執権政治を中学生向けに解説!

朝光はその後も平家との戦いや奥州合戦に従軍した他、承久の乱でも活躍し北条氏からも信頼され、5代目の執権・北条時頼の代に87歳で亡くなりました。寒川尼自身も頼朝からの信頼は厚く、1187年には女性の立場でありながら地頭に就任されています。

山内尼 頼朝に歯向かった息子の命乞いが認められた理由とは

山内尼の一族は代々河内源氏に仕えており、中には頼朝の祖父である源為義の乳母になった女性もいたと言われています。山内尼自身、夫である山内首藤 俊通(やまのうちすどう としみち)と長男の俊綱を平治の乱で亡くしており、源氏との深い繋がりが伺えます。

一方、尼の三男にあたる山内首藤経俊(やまのうちすどう つねとし)は頼朝の挙兵に従わず、石橋山の戦いでは頼朝の鎧に矢を当てたという記録が残されています。戦後、経俊は捕虜になり殺されかけますが、母である山内尼がその命乞いを必死に懇願し、これまでの源氏に対する功績を踏まえ一命を取り留めます。その後、経俊は伊勢や伊賀の守護に就任し、源義経の家来である伊勢義盛を破った功績が伝えられています。

この他、一説には摩々尼(ままのつぼね)という乳母も存在したという話もありますが、彼女は山内尼と同一人物ではないかとする説もあります。

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まとめ


源頼朝の母親である由良御前と、頼朝に仕えた3人の乳母(比企尼、寒川尼、山内尼)についてご紹介しました。
まとめると以下にようになります。

・頼朝の母親である由良御前は熱田神宮の宮司の娘だった。
・頼朝が源氏の後継者となったのは、由良御前の家柄の高さも大きい。
・比企尼は伊豆時代の頼朝を20年近く支え、3人の娘も頼朝の身近な人との関係が強い。
・寒川尼は頼朝の9つ上で、頼朝側近の結城朝光の母親でもある。
・河内源氏に仕えた一族をを持つ山内尼は、頼朝に歯向かった息子の命乞いをしている。

歴史上の人物を語る上で身近で支えた女性というのは、いつの時代も避けて通れない存在だなと改めて感じますね。