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江戸幕府をつくり、250年以上も続いた江戸時代の礎を築いた徳川家康

今回は徳川家康がどんな人だったのかを、その生涯を年表を使って見ていきたいと思います。

また、天下統一の先駆けとも言える織田信長との関係についても解説します。

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徳川家康ってどんな人?その人物像に迫る1


まずは徳川家康はどんな人だったのかを、簡単にご紹介します。

慎重で我慢強い性格だった事で知られている家康。その原点は、父親の松平広忠、そして祖父の松平清康が家臣に殺されたり、10年以上も織田家、そして今川家の人質として生活を送った事にありました。こうした家康の性格は、江戸時代に成立したとされる川柳「鳴くまで待とうホトトギス」でも表現されており、徳川時代からその人物像が知られていた事が分かります。

そして家康は義理に厚く律儀な男でもありました。1562年に織田信長と同盟を結ぶと、その20年後に信長が亡くなるまで信長の天下取りを度々助けています。また、武田家を滅ぼした際、信長が武田家に仕えていた家臣を見つけ出して殺せと命令した時、家康は武田家の人々を匿っていた事があります。その後、武田家に仕えていた少なくない数の武将が家康の家来になり、彼の天下取りを支えていく事になりました。

また家康と言えば、豊臣秀頼を追い詰め、自害に追い込んだ事から「狸親父」としてその性格を非難される事も多いですよね。ただ一説によると、家康は秀頼の命までを取るつもりはなく、最終的には秀頼を保護するつもりだったと言われています。秀頼の最後を聞いた後では泣き出したと言う説もあります。「秀頼のことを頼む」と秀吉から度々頼まれた家康は、本当はその遺言は守りたかったのかもしれません。

最後に、家康は健康オタクとしての側面を持っていた事も有名です。食事はとても質素で、好きな食べ物は麦飯と魚料理。酒は飲むが暴飲暴食はしなかったと言われています。薬の知識も医師並みだったと言われており、ヨーロッパの医学にも興味を示した逸話も残されています。
その結果、家康は75歳まで長生きする事に成功していますが、もしも49歳で亡くなった信長、62歳で亡くなった秀吉がこれだけの長寿であれば、家康の天下取りは上手くいかなかったかもしれませんね。

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徳川家康の生涯はどのようなものだったのか?


続いて、徳川家康の生涯を年表を使って振り返ってみましょう。


・1542年(0歳)
三河の岡崎城主、松平広忠の嫡男として誕生する。
幼名は竹千代(たけちよ)だった。

・1548年(6歳)
父親の広忠が駿河国の大名、今川家に服属する。
家康は人質として今川家に送られるが、途中で織田家に誘拐される。
この頃、織田信長と知り合ったとされる。

※参照:徳川家康の幼少期や人質時代の日々。母親の於大の方はどんな人?

・1548年(7歳)
松平広忠が家臣によって殺される。

・1550年(8歳)
織田家と今川家の交渉によって、今川家の人質として駿河国に送られる。

・1557年(15歳)
元服して松平元信(まつだいらもとのぶ)と名乗る。
今川義元の姪とされる瀬名姫(築山殿)と結婚する。

※参照:瀬名姫(築山殿)の生涯を年表で解説。子供やその性格とは?

・1559年(17歳)
嫡男の松平信康が産まれる。

・1560年(18歳)
桶狭間の戦いに参加して活躍するも、主君の今川義元が戦死する。
今川家からの独立に成功する。

※参照:桶狭間の戦いを簡単に説明。信長の勝因や徳川家康の動向は?

・1562年(20歳)
織田信長と清洲同盟を結ぶ。

・1566年(24歳)
三河国を統一する。
姓を「松平」から「徳川」に改め、徳川家康と名乗る。

※参照:徳川家と松平家の関係や家紋の違いについて。改名の理由は?

・1570年(28歳)
本拠地を岡崎城から浜松城に移す。
姉川の戦いに参陣し、織田信長と共に浅井長政、朝倉義景に勝利する。

・1572年(30歳)
三方ヶ原の戦いで武田信玄に惨敗する。

・1575年(33歳)
長篠の戦いで武田勝頼を破る。

・1579年(37歳)
武田家の内通疑惑をかけられた築山殿を殺害し、嫡男・信康を切腹させる。
後に家康の後継者となる、徳川秀忠が産まれる。

※参照:松平信康の切腹の真相やその評価とは。子供や子孫はいるの?

・1582年(40歳)
武田家を滅ぼし、信長から駿河国の領有を認められる。
本能寺の変で織田信長が亡くなり、武田家が治めていた甲斐、信濃が混乱する。
家康は甲斐、信濃に攻め込み、北条家との戦いを経てこの2カ国の領有に成功する。

・1584年(42歳)
小牧・長久手の戦いが勃発。信長の子・織田信雄と手を組み秀吉と戦う。
領国で地震などの災害が発生し、その立て直しに迫られる。

・1586年(44歳)
秀吉との抗争を断念し、豊臣政権に臣従する。
本拠地を浜松城から駿府城に移す。

・1590年(48歳)
秀吉の小田原征伐に従軍し、数多くの戦功をあげる。
三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を没収され、変わりに関東8カ国を与えられる。
居城を江戸城に移す。

・1598年(56歳)
秀吉により、豊臣政権の五大老に任命され、その筆頭として権力を振るう。

・1600年(58歳)
関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍に圧勝。天下人となる。

・1603年(61歳)
征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く。

・1605年(63歳)
将軍職を後継者の秀忠に譲るが、大御所として実権は握り続ける。

・1615年(74歳)
大坂夏の陣で豊臣秀頼を滅ぼす。
武家諸法度および禁中並公家諸法度を制定する。

※参照:大坂夏の陣のきっかけや場所を解説。『大坂夏の陣屏風』とは?

・1616年(75歳)
朝廷から太政大臣に任命される。
駿府城にて病死する。死因は胃癌とされている。

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家康の生涯は、戦国時代の波に翻弄された人生であった事がよく分かると思います。しかし、こうした山あり谷ありの生涯を過ごし、その過程で数多くの教訓を得たからこそ、後に250年も続く江戸幕府を樹立できたとも見て取る事が出来るのではないでしょうか。

徳川家康と織田信長、二人の関係とは?


ところで、徳川家康と織田信長の関係はどのような間柄だったのでしょうか?

家康はまだ竹千代と名乗っていた少年時代の2年間、織田家の人質として過ごしていた時期があります。この時、家康は織田信長と知り合ったされ、一説によれば信長は8歳年下の家康をとても可愛がっていたと言われています。

そして1562年、家康は織田信長と清洲同盟を締結し、信長の天下統一事業をたびたび助けています。信長の上洛や姉川の戦い、長篠の戦いで家康は信長に援軍を送っています。一方で信長も、家康が武田信玄と激突した三方ヶ原の戦いでは援軍を送っており、家康との関係を重んじています。信長と家康の関係は、本能寺の変で信長が討たれる20年間も続いた事になります。

一見対等な関係に見える徳川家康と織田信長の間柄ですが、信長の領土が拡大するにつれ従属的な関係へと変わっていったようです。1579年、家康は嫡男の松平信康を切腹させ、正室の築山殿を殺させていますが、その背景には信長の要求があったという説もあります。また、武田家を滅ぼした家康は駿河国を自らの領土としていますが、この駿河領有は「信長から与えられた」という形式になっている事からも、両者の関係の変化が伺えます。

また、家康と織田信長は子供や一族を通して親戚という関係になっているとも言えます。家康の嫡男である松平信康と信長の長女である徳姫、そして家康の三男である徳川秀忠と信長の妹、お市の方の三女である江がそれぞれ結婚しているからです。

※追記:2022年2月4日
2023年度大河ドラマ「どうする家康」では、松本潤さん演じる家康と、岡田准一さん演じる信長の関係が重要なテーマの1つになるそうです。このドラマでは「孤独なカリスマ」信長に「必死に食らいつく」家康が描かれるとの事。ドラマ化に伴い、この2人の関係に関する研究も進みそうですね。

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この記事のまとめ


徳川家康がどんな人だったのかを、その生涯や織田信長との関係も交えてご紹介しました。

群雄はびこる戦国時代の中でも覇者とも言える家康ですが、派手なサクセスストーリーがあるわけでもなく大人気の武将とは言えません。しかし10年にも及ぶ人質時代や常に戦いの中に身を置く人生の中で、織田信長や豊臣秀吉、そして諸大名の信頼を受けながら、最終的に天下を取る事に成功しました。

ただ織田信長との関係は、信長主体の主従関係に他ならず家康にとっては必ずしも良好なものとは言えなかったようです。そんな荒波の中で培われた精神が忍耐強く、義理堅い家康の人格を形成しました。その狡猾と言われるまでの世渡り術は、現代のビジネスシーンでも活かせる場面もありそうですね。

なお、以下の記事では徳川家康がしたことを具体的に解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:徳川家康がしたことをわかりやすく解説!