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織田信長、豊臣秀吉と並んで「三英傑」と呼ばれ、最後に天下を手中に収めた徳川家康

秀吉の死後、豊臣氏から奪うような形で天下をとったため、「狸親父」的な扱いを受けることもありますが、若いころはなかなかの苦労人でもあります。

今回は、そんな徳川家康が「したこと」をわかりやすく解説してみました。

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徳川家康がしたこと1(誕生〜甲州征伐まで)


まずは若い頃の家康がしたことを、1582年の甲州征伐の時期までを目処にご紹介します。


・織田・今川の人質となる
6歳の時に今川氏の人質として駿府に送られる途中、義母の父の裏切りで織田氏に送られてその人質とされました。その後、父・広忠が家臣によって暗殺されます。家康は織田・今川間の人質交換により今川氏の人質となりますが、嫡男であるにもかかわらず駿府に留め置かれ、松平氏の居城・岡崎城には今川氏の城代が置かれました。
元服後は今川義元の一字をとって「元信」、やがて「元康」と名乗ります。

※参照:徳川家康の幼少期や人質時代の日々。母親の於大の方はどんな人?


・今川から独立して、織田信長と同盟を結ぶ
今川の先鋒として桶狭間の戦いに参加した家康は、義元が討ち取られた後の混乱に乗じて岡崎城に入り、独立の意思を表します。織田信長と同盟を結んで今川と断交、義元の一字をもらった名前も改めて「家康」と名乗ります。

※参照:桶狭間の戦いを簡単に説明。信長の勝因や徳川家康の動向は?


・徳川に姓を改める
また、この次期の家康は三河の国人衆を調略するなど勢力を拡大し、義元の跡を継いだ今川氏真の勢力を追い払って三河国を手中に治めました。そして家康は「三河守」の官職を得るため、姓を松平から徳川に改めています。
松平氏は清和源氏の新田氏の流れでしたが、そのままでは三河守への就任が出来ないため、家康個人のみ、藤原氏の流れを汲む徳川姓に改める事にしたのです。

※参照:徳川家と松平家の関係や家紋の違いについて。改名の理由は?


・今川氏を滅ぼす
天下を目指す信長に協力しながら、一時的に武田信玄と協力して遠江に侵攻します。結局、信玄とは手切れになりましたが、今川氏真を追い払い、遠江を手中にした家康は浜松に移り、浜松城を築いてそこを居城としました。

※参照:今川氏真の人生や今川家の家系図を解説。家康との仲は良かった?


・武田氏と戦い、最終的に勝利する
信長と対立した武田信玄は京へ向かって軍を進めます。信長と同盟関係にある家康の治める遠江・三河に侵攻、迎え撃った家康ですが「三方ヶ原の戦い」で惨敗、浜松城に逃げ帰りました。ところがこの後、西上の途上で信玄は病死してしまいました。信玄の死は伏せられましたが家康はこれを察知し、反撃を開始します。織田軍の主力と共に戦った1575年の「長篠の戦い」に勝利し、その後も1582年に武田家の領土である駿河に侵攻。信長からその領有を認められました。


・嫡男を切腹させ、妻を処刑する
同じころ、信長の命令で嫡男の松平信康を切腹させ、今川家出身の妻・築山殿を処刑しました。武田との内通を疑われたといわれますが、家康と信康の対立、あるいは家臣団の対立に巻き込まれた説もあります。

※参照:松平信康の切腹の真相やその評価とは。子供や子孫はいるの?

徳川家康がしたこと2(本能寺の変〜五大老就任まで)


この頃の家康は信長と同盟を結んでいましたが、その信長が1582年の本能寺の変で亡くなります。その後の家康がしたことを、1600年の関ヶ原の戦いの直前の時期までまとめてみました。


・本能寺の変の難を逃れる
信長が本能寺の変で明智光秀の裏切りにより倒れた時、家康は堺にいました。少人数の供回りしか連れていなかった家康は一時切腹も覚悟したといいます。それでも何とか伊賀の山道を越えて伊勢に入り、海路で三河へ帰還しました。これが後に言う「神君伊賀越え」です。やっとの思いで浜松にたどり着き、光秀の討伐へと向かいますが、その時はすでに羽柴(豊臣)秀吉が光秀を討ち取った後でした。


・旧武田領を手に入れ、5カ国の大名となる
旧武田領は上杉氏と北条氏の侵攻を受け、信長により派遣されていた滝川一益は敗れて逃げ帰りました。家康は取り込んだ旧武田氏の遺臣と共に甲斐国に侵攻します。北条と和睦した上杉は兵を引きましたが、北条氏直は徳川と対峙します。しかし北条から徳川に寝返った真田氏のゲリラ戦術に氏直は手を焼き、家康と和睦する事を決断します。この和睦により、家康は娘の督姫を氏直に嫁がせて姻戚同盟を結び、さらに甲斐・信濃・駿河・遠江・三河の5カ国を支配する大大名となりました。


・小牧長久手の戦いに勝利し、秀吉へ臣従する
一方、織田家中では秀吉が台頭します。これを快く思わない信長の次男、織田信雄は家康に接近します。これによって家康は秀吉と「小牧・長久手の戦い」で対峙。局地戦では勝利するものの、秀吉の優位が変わる事はありませんでした。その後、関白として豊臣政権を確立した秀吉は家康に対し、上洛して臣従するように催促します。はじめは応じようとはしませんでしたが、次々と諸大名が秀吉に従い、さらに秀吉が人質として妹の朝日姫、さらに母親の大政所を差し出し家康を懐柔したため、やむなく大阪城で秀吉に臣従する事となりました。


・関東に移封され、江戸に本拠地を置く
こうして豊臣政権の重鎮となった家康。娘壻で未だ秀吉に従わない北条氏直に対して恭順を求めますが、氏直が従わなかったため、小田原攻めに参加します。北条氏は滅ぼされ、その旧領に家康が移封されました。家康は江戸城に入り、新たな所領となった土地に家臣を配置して領国経営を行います。関東のほぼ全域にあたる豊臣政権内では最大の領地を与えられ、一方で朝鮮出兵では自ら渡海することもなく、着々と「今後」に備えて力を蓄えました。


・五大老に就任する
自らの死期が近いと悟った秀吉は、後継者の秀頼を支える体制として五大老、五奉行を置くこととして、五大老のひとりに家康を任命しました。秀吉の死後は五大老の筆頭として政権内で台頭します。五奉行のひとり、石田三成がこれに反発しますが、三成に反感を持つ者たちによって彼が襲撃された事件を利用して政権内から追い出しました。

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徳川家康がしたこと3(関ヶ原の戦い〜諸法度の整備まで)


こうして豊臣政権の事実上のトップとなった家康。
最後に、家康が1600年以降にしたことをまとめてみました。


・関ヶ原の戦いで勝利する
会津の上杉氏に軍備の増強など怪しい動きがあると知らせを受けた家康は上杉氏討伐を決めます。家康が出兵する隙をついて石田三成は諸大名に号令をかけて家康を倒そうと図ります。家康に味方する大名(東軍)と三成につく大名(西軍)に分かれて「天下分け目」といわれる関ヶ原の戦いが起こりました。この戦いに家康は勝利して反家康勢力を一掃。「天下人」としての地位を固めます。


・征夷大将軍となり江戸に幕府を開く
関ケ原の勝利で天下人となった家康に対し、朝廷は彼を征夷大将軍とします。家康は江戸に幕府を開いて嫡男・秀忠に将軍職を譲ります。これで徳川氏の将軍世襲が現実のものとなりました。家康本人は駿府にいて「大御所」として政務をとり、実権を握り続けます。

※参照:江戸幕府を小学生向けにわかりやすく解説。年表や安定した理由は?


・朱印船貿易の開始とキリスト教禁教
家康は外国貿易については積極的に進めました。オランダやイギリスの東インド会社の商館を平戸に開設することを許しています。朱印状と呼ばれる特許状を与えて交易をおこなわせました。一方で、キリスト教の布教に対してはこれを禁止しています。


・大坂の陣で豊臣氏を滅ぼす
晩年の家康の不安は豊臣家の存在でした。天下人となり、徳川氏の支配体制を確立しつつあったとはいえ、それに反発する勢力にとって豊臣家の存在は求心力となります。徳川氏の支配を盤石とするために家康は豊臣氏を滅ぼすことにします。そして大坂夏の陣と大坂冬の陣の2回の戦いで豊臣秀頼を自害に追い込み、豊臣氏を滅亡させました。


・諸法度を整備し、幕府の礎を築く
最晩年の家康は武家の統制を目的とした「武家諸法度」、朝廷と幕府の関係を定めた「禁中並公家諸法度」などの法令を整備します。こうして家康は、その後264年にわたる江戸幕府の支配体制を確立したのです。

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この記事のまとめ


今回は、徳川家康がしたことをわかりやすく解説してみました。

大国に従う国人の家柄でついには天下人となった家康は、秀吉ほどではないかもしれませんが、とてもドラマチックな人生を送ったといえます。

さらに家康の「したこと」は、その後264年にも及ぶ幕府の基礎を築くという形で実を結びました。彼の「したこと」の積み重ねが、盤石の支配体制の礎となったのです。

なお、以下の記事では徳川家康の生涯や織田信長との関係を解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:徳川家康ってどんな人?生涯や織田信長との関係にも迫る!