百田尚樹さんの小説『海賊とよばれた男』を読んだ事はありますか?2016年に映画化されるこの作品の主人公・国岡鐡造のモデルになったのは、出光興産の創業者、出光佐三という人物です。

一体どのような方だったのでしょうか。このページでは出光佐三がどんな人物だったのかを、その妻や昭和天皇とのエピソードを含めご紹介します。

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出光佐三ってどんな人物?何をした人なの?


まずは出光佐三がどんな人物だったのかを、簡単にご紹介します。

出光佐三は1885年、現在の福岡県宗像市で産まれました。この宗像市には海上安全を司る宗像大社があるのですが、佐三はこの宗像大社に対する信仰心が厚かった事でも知られています。こうした信仰心が、佐三の経営者としての下地を形作った面は非常に大きかったと思われます。

1909年に神戸高等商業学校を卒業すると、精油や機械油を扱う酒井商店という会社に入社。その2年後、日田重太郎という資産家から8000円を渡され独立し、日本石油(現在のJXエネルギー株式会社)の特約店として機械油を扱うようになります。事業は成功し、1937年には今でいう高額納税者として、貴族院議員になった事もある程でした。しかし戦争によって借金も増えるなど、会社の先行きが次第に怪しくなっていきます。

1945年の8月13日、間もなく終戦を迎えようとする時期、佐三は1000人以上の従業員の首を一人も切らない事を宣言し、実行に移します。また1953年には他国に先駆けてイランから石油を調達する事に成功。この時、石油を載せて帰国した出光の船、日章丸が川崎へ到着した事は、敗戦に打ちひしがれていた多くに日本人に勇気を与えました。

出光佐三のビジネススタイルは、「黄金の奴隷になるな」という名言に見られる通り、利益至上主義に走らず、常に信用を重んじるものでした。1981年、佐三は95歳でなくなります。この時、その側近を長年続けた石田正實は佐三について「この人は、一度も『金を儲けろ』と言わなかった」と語っています。

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出光佐三の妻はどんな人?


そんな出光佐三の妻とは、一体どのような女性だったのでしょうか。

出光佐三は生涯、二人の女性と結婚しています。一人目の妻は城戸崎ケイという女性で、福岡のお金持ちのお嬢様だったと言われています。『海賊とよばれた男』の国岡ユキのモデルとなっている方ですね。この結婚は1915年頃でしたが、二人の間には子供が出来ませんでした。このため1926年、二人は協議の上離婚したと言われています。

その後、佐三は1927年に二人目の妻を迎えます。相手は山内靖子という女性で、かつて土佐藩の藩主を務めた山内家にゆかりのある方でした。二人の間には1男4女、合計5人の子供が産まれています。このうち長男の出光昭介氏は出光興産の5代目社長であり、現在では名誉会長を務めておられます。また3女の出光純子氏はフィギュアスケート選手として知られおり、1960年の全日本選手権で優勝した事跡がある方です。四女の出光真子氏は後年、佐三が男尊女卑を絵に描いた人物だとし、娘や妻の靖子に対して自分の考えを口にする必要はない、と発言し、世間の話題を集めました。

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出光佐三に贈った、昭和天皇が詠まれた和歌


出光佐三と言えば、皇室を暑く崇敬した事でも知られる人物です。当時の皇室の方々も佐三の想いについては知っていたようで、1981年に佐三がなくなった際、昭和天皇が「出光佐三、逝く」として以下のような歌を詠んだ事は広く知られています。

国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思ふ


この歌の意味を簡単に解釈してみると…

あなたは我が国が困難な状態に置かれる中、
国家と国民の為に尽くし、日本人の誇りを取り戻してくれた。
そんなあなたがいなくなり、私は寂しいと思っている


といった感じになるでしょうか。


実は、天皇が一般人の逝去をおしんで歌を詠むという事は、めったにないケースなのです。
それだけ佐三に対する昭和天皇の信頼は扱ったのでしょう。

一方の佐三も、日本人が昔から大切にしてきた和の精神、助け合いの精神を重んじてきた事でも知られています。戦後、経営が苦しい中従業員を1人も解雇しなかったのも、こうした精神から来るものなのでしょう。
こうした佐三のスタンスを表す言葉で有名なのが「日本人にかえれ」という言葉で、これは2011年、出光興産が創業100周年を迎えた際、新聞広告に以下の言葉を出しています。

「日本人にかえれ。」
これは、創業者出光 佐三のことばです。

日本人が古くから大切にしてきた和の精神・互譲互助の精神、自分たちの利益ばかりを追求するのではなく、世のため人のためにことを成す。
佐三の信念によって、出光はいまも、そうした日本人らしさを心に活動しています。

東日本大震災に襲われた日本に向け、海外から届いたたくさんの励ましの言葉。
その中にも、佐三が大切に考えていた日本人らしさを称賛するものがありました。
その数々の言葉によって、私たちは勇気づけられ、日本人であることの誇りをあらためて認識することができました。

一方で、震災を経たいま、本当のゆたかさとは何か、私たちは何を大切にして生きていくべきなのか、これからの日本人のあるべき姿はどのような姿か、一度ゆっくり立ち止まって、向き合う必要があるのではないでしょうか。

本日、出光は創業100周年を迎えました。
これからの100年、私たちに何ができるのか。
世界が日本に注目するいま、私たちはこれまでの歩みを振り返り、新たな一歩を踏み出し、次の100年の社会づくりに貢献する企業を目指してまいります。
私たちは、日本人のエネルギーを信じています。

出光創業100周年
2011年6月20日 新聞広告へ掲載
※引用:日本人にかえれ – 歴史 – 出光興産


※参照:出光興産の歴史を年表を使ってわかりやすく解説

この記事のまとめ


このページでは出光佐三がどんな人だったのかを、その妻や昭和天皇との関係を示すエピソードについてご紹介しました。

2011年の広告や翌年に発行された百田尚樹さんの小説によって、佐三に対する注目がここ数年、急速に集まっています。また2016年には昭和シェル石油との経営統合や『海賊とよばれた男』の映画化によって、日本人が佐三を思い出す機会も増えてきました。

出光佐三の生涯を振り返る事は、今現在、非常に意義がある事なのではないか…記事を書いていてそう感じました。

なお、以下の記事では若き日の佐三に資金提供をした日田重太郎という人物について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:日田重太郎ってどんな人物?出光佐三との関係は?