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日本人ならば、一度はその名を聞いたことのある俳人・正岡子規
その生涯は短く、満34歳という若さでこの世を去りました。

しかし、正岡子規は、現代に至るまで名句とされる俳句を数多く残しています。また、日本を代表する文豪・夏目漱石とも旧知の仲であり、同じく名を残した俳人・高浜虚子を師として導いた人物でもあります。

今回は、そんな正岡子規の残した俳句の中でも特に有名な作品を、簡単な口語に訳し、そして、そこに込められた意味などを紐解きつつご紹介していきたいと思います。

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正岡子規の有名な俳句(その1)


春や昔 十五万石の 城下かな

この俳句は、明治28年、正岡子規28歳頃の作です。日清戦争の従軍記者として中国へ赴く前、一時、東京から故郷の松山に戻った際に、詠み上げた俳句だそうです。

それでは早速、この俳句の意味を簡単な口語に直してご紹介します。

かつて江戸幕府があった頃は、
この地も十五万石の栄えた城下だったが、
その春も今は昔のことか


この俳句は、正岡子規の作品の中でも非常に有名な一句であり、戦後は子規の故郷、松山の象徴としても扱われています。1949年、松山駅前にこの俳句を模した石碑が建てられましたが、その4年後に行われた駅の改修工事のため、この石碑は子規記念館の横へと移動されました。しかし現在では、この石碑は松山駅前のロータリー西側にある交番の前に再び建てられています。

この俳句を詠んだ後、正岡子規は周囲の反対を押し切り、従軍記者として戦地へ向かいます。その後は、従軍したことで患っていた結核が悪化。短い生涯を閉じることになります。

帰郷した際、故郷を眺めながら、正岡子規はこの俳句をどんな想いで詠み上げたのか。
もしかしたら、松山の地と、自らの行く末を重ね見ていたのかもしれませんね。

※参照:

正岡子規の有名な俳句(その2)


柿(かき)くえば 鐘(かね)がなるなり 法隆寺

こちらの俳句は1895年頃、正岡子規が日清戦争の従軍記者として赴いていた中国から帰国した後の作品です。子規の俳句の中でも、とりわけ有名な作品です。

帰国後に病状が悪化した正岡子規は、神戸にて入院。その後、一時病状が落ち着いたため松山に戻った子規は、夏目漱石の下宿所で仮住まいをします。さらに病状が良化してきたため、帰京しようとした際の途中、奈良に寄った正岡子規。
この俳句は、そのときに詠われたものだとされています。

それでは早速、この俳句の意味を簡単な口語に直して解説してみます。

法隆寺に詣でた帰り、近くの茶屋に寄って、しばしの休憩と柿を食べいていたら、法隆寺の鐘の音が聞こえてきて、ああ、秋だなぁと感じ入った

柿は正岡子規の大好物だったそうで、一度に5、6個は食べるのが通例だったそうです。

そして、この俳句には前置きとして「法隆寺の茶店にて」という言葉があります。
つまり、法隆寺の茶店で柿を食べていた正岡子規は、鐘の音色に秋を深く感じられたと詠み上げているのです。

しかし、この俳句の面白い所は、子規がその想像力によって詠んだ作品ではないかと言われている事にあります。当時、この日は雨であり、境内の散策などできない状況でした。さらに、正岡子規の病状からすると、法隆寺へ参拝に出かけるほどの体力はなかったという見解があるため、実際に法隆寺に出向いて詠んだ訳ではないという説が有力なのです。

なぜ、正岡子規は、そんな俳句を詠んだのか。

これには、掛け替えのない友、夏目漱石への礼を表した俳句だったのではないかという説があります。松山に教師として赴任していた夏目漱石は、正岡子規の療養生活中、色々と世話をしてくれたそうです。また、奈良への旅費の工面も、夏目漱石が手配してくれました。

そんな夏目漱石の詠んだ俳句に「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」というものがあります。この正岡子規の俳句は、その俳句にかけて詠まれた俳句であり、二人の友情の証となるものであったのではないかと言われているのです。

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正岡子規の有名な俳句(その3)


鶏頭の 十四五本も ありぬべし

こちらは1900年、正岡子規33歳頃の作です。
この頃になると、子規の病状は非常に悪化したものになっていました。このため子規は療養に専念せざるを得なくなり、歌会なども中止するようになっていきました。

こちらの俳句は、この時期の子規が行った数少ない歌会の中で発表された作品です。
それでは早速、こちらの俳句の意味を簡単な口語にしてみたいと思います。

庭前の鶏頭が、だいたい14、15本ほどあるだろうか

脚色や装飾はせず、写生にて俳句を詠むという正岡子規らしい端的な俳句です。しかし、だからといって、見たままをただ俳句にしているわけではないのが俳句の世界。俳句というのは、短い言葉の中に詠み込まれた風景を想像し、己の解釈に委ねることで、その世界観は数多へ広がりをみせるのです。

けれど、その自由に想像できる世界観から、この俳句の場合は、とても根深い論争を巻き起こすことになりました。それが有名な「鶏頭論争」です。

発表後から評価の低かったこちらの俳句ですが、1931年頃になると、歌人・斎藤茂吉により、それまでとは反対の高評価を得ることになりました。その後の1949年にも、山口誓子や西東三鬼などが、価値のある俳句だと評価を上げる発言をしました。

その内容を要約すると、この俳句は、活き活きとした「生」を表現する庭前の「鶏頭」が複数乱立する様を、病床の正岡子規が詠むことで、対比の世界観を作り出しているというものです。

しかし、それでも取るに足らない俳句だと主張する歌人や俳人たちも多くいました。その主な意見としては、正岡子規の生涯などを知らない人間が見れば、ただの情景報告の俳句に過ぎないというのです。

このように、長年にわたり歌人や俳人たちの間で、激しい論争が起きたのです。けれど、逆を考えれば、この俳句はそれだけ長い間、著名な俳人や歌人たちに注目され続けた俳句でもあるということです。

真実として何を想い、何を込めて詠んだのかは、詠み手である正岡子規にしか分かりません。
それでも、正岡子規が残した俳句の中で、これほど話題をさらった俳句は他にないのではないでしょうか。

正岡子規の有名な俳句(その4)


いくたびも 雪の深さを 尋ねけり

こちらの俳句は、明治29年の作で、このときの正岡子規は、東京の根岸にある子規庵で、すでに寝たきりという生活を過ごしていました。正岡子規は、この子規庵にて母と妹の篤い看護を受けたといいます。

そんな正岡子規が詠んだこちらの俳句を、簡単な口語に直してみたいと思います。

どれほどの雪が降ったのか、どれほど積もったのか、何度も尋ねてしまうものよ

病床にある正岡子規は、自ら雪の深さを見に行くことはできません。
だから何度も、何度も家族などに尋ねてしまったわけです。
この俳句からだけでも、正岡子規が雪が降ったことを子供のように喜んではしゃいでいる様子が窺えます。

そして、面白いのが、そんな正岡子規を見かねた弟子の高浜虚子は、明治32年、ガラス障子を子規庵に設置したというのです。
ガラスになったことで、病床で寝たきりの正岡子規でも、庭の雪が見えるように、という心遣いなのでしょう。

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正岡子規の有名な俳句(その5)


糸瓜(へちま)咲て 痰のつまりし 仏かな

最期にご紹介するこちらの俳句は、1896年に詠まれた「正岡子規の絶筆三句」の1つともいわれる有名な作品です。この俳句を含めた3つの俳句を書き上げた瞬間、そのまま筆を落として倒れ込んだという逸話も有名です。

それでは、こちらの俳句の意味を簡単な口語に直して見ていきたいと思います。

薬となる糸瓜が咲いたけれど、痰がつまって仏(死人)となる身には間に合わないだろう

長いこと結核を患っていた正岡子規。
当時、糸瓜は薬として使われていました。
咳止めとしてや、結核の痰を切るのに、糸瓜の根本から採取できる液は効果があったそうです。

つまり、薬として植えた糸瓜が咲いたけれど、もはや、自分には間に合わない。
死を悟った正岡子規が、死の直前に残した最期の俳句なのです。

因みに、他の2つの俳句は、こちら。

痰一斗糸瓜の水も間に合わず
をとヽひのへちまの水も取らざりき

この3句を合わせると、このような意味になるのではないかと思います。

薬となる糸瓜が咲いたけれど、どんなに効果のある糸瓜の薬水も、もはや痰を詰まらせ仏となるこの身には効果もなく、間に合うこともないだろう。だから、効果が高まるという十五夜である一昨日も、糸瓜の薬水は取らなかった

なんとも切ない内容ではあるのですが、これを死に瀕した本人が詠み上げるという点に、子規の凄みがあると言えるでしょう。
臨終の際まで、俳人として生き抜く。
そこに、さすがは名を遺す俳人だと称賛せずにはいられません。

この記事のまとめ


明治時代を代表する有名な俳人、正岡子規
俳句や短歌、漢詩などを数多くの作品を残しました。
特に俳句は、その短い生涯で20万を超えるほど残したと言われています。

また、その後の文学界に多大な影響を残した人物でもあります。
生涯の友である夏目漱石や、弟子の高浜虚子などは、そのごく一部です。
面白いことに、正岡子規の人物像を辿ると、必ず誰かが傍にいるのです。

人に愛され、尊敬されたことでも有名な正岡子規。
以下の記事では正岡子規がどんな人だったのかを分かりやすく解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:正岡子規ってどんな人?年表や夏目漱石との関係とは?