死ぬ間際に残す和歌や俳句を辞世の句と呼びます。中世以降、多くの歴史人物が死ぬ直前に辞世の句を残しており、こうした作品からはその読み手の人柄を偲ぶ事ができます。
それでは、戦国武将が残した辞世の句には、どのようなものがあるのでしょうか。彼らが詠んだ有名な辞世の句を5つ取り上げ、その意味や句の背景などを眺めてみたいと思います。
目次
終の住処を求めていた!?斎藤道三の辞世の句
「捨ててだに この世のほかは なき物を いづくかつひの すみかなりけむ」
作者は「美濃のマムシ」の異名で知られる斎藤道三です。油売りの行商から身を興して美濃国の国主に上り詰めた道三。下克上の典型的な事例と言われる人物ですが、最後には嫡男・斎藤義龍と対立し、長良川合戦によって戦死しました。
それでは、斎藤道三が詠んだ辞世の句の意味を見ていきましょう。
「捨ててしまっていてさえも、この世の他にはなにもないものだ。
終の住処などどこにもないのだ。」
剃髪し出家していた道三は、形の上では世捨て人ですが、その後も嫡男の義龍と対立を深め、道三自身の命運も尽きてしまうのです。「終の住処」などこの世の他にはどこにもない、というところに梟雄と呼ばれた道三の生き様が見えてくるようです。
※参照:斎藤道三ってどんな人物?父親の松波庄五郎や家臣について!
儚き天下人による嘆き?豊臣秀吉の辞世の句
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
豊臣秀吉の作品です。農民から身をおこし、信長の武将となり、信長に謀反をおこした明智光秀を討つなど、一躍天下人に名乗りを上げた秀吉。関白、太閤と権力を手にしますが、豊臣政権は秀吉の老いとともに自己肥大し、諸将の気持ちも次第に冷えてしまいます。そして、その栄光は秀吉の一代で潰えてしまいました。
それでは、秀吉が最後に詠んだ句の意味を見てみましょう。
非常に有名な作品なので、ご存じの方も多いかもしれませんね。
「露のように生まれ、そして露のように死んでゆくのだなぁ。
もはや浪速(大坂)で極めた栄華もじつに儚いものとしか思われない。」
「露」とは儚いものの代名詞です。大坂城という世界に誇る巨城を作り、日本を意のままに治めた秀吉ですが、死の間際になれば幼子の秀頼の行く末を案じる事しか出来なかった事でしょう。どれだけ権力を持とうが、その後の事は自分の一存では決断出来ない事を理解した、天下人の嘆きのようなものを感じますね。
叔父の道具(?)としての人生を振り返った豊臣秀次の辞世の句
「月花を 心のままに 見尽くしぬ 何か浮世に 思い残さん」
作者は、秀吉の甥である豊臣秀次です。叔父の跡を継ぎ関白に就任した秀次ですが、秀吉に嫡男の秀頼が誕生すると疎んじられ、最後は高野山で切腹してしまいます。ただ秀次の切腹の真相は不透明な部分もあり、今後の研究結果が待たれる所ではあります。
それでは、豊臣秀次が詠んだ辞世の句の意味をご紹介します。
「月も花も思う存分見ることができた。
浮世に思い残すことはもう、なにもない。」
秀次はその人生を、叔父である秀吉の政治の道具と思って歩んできたのではないでしょうか。幼い頃から叔父と縁のある武将の養子に出され、最終的には秀吉の後継者となって関白に就任するも謀反の疑いをかけられる事に。
「思い残さん」という秀次の句には、澄みきった諦めのようなものを感じます。
※参照:豊臣秀次の切腹と石田三成の関係は?若江八人衆のその後も解説!
故郷・琵琶湖の火を題材にした石田三成の辞世の句
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
作者は、秀吉の側近・文官として豊臣政権の屋台骨を支えた石田三成です。秀吉の死後、即座に台頭した徳川家康に抗い、関ヶ原にて雌雄を決しようとしますが敗北。捕らえられ斬首される事となりました。
それでは、石田三成による辞世の句の意味をご紹介します。
「この風景は筑摩江だなぁ、芦の間にかがり火が灯っている。
あの灯とともに、まもなくわが命も消えてしまうのだろう。」
筑摩江とは、かつて存在した琵琶湖の一部で、現在は埋め立てられてしまい見ることができません。琵琶湖は石田三成の出身地である近江国にあるため、三成もこの湖を見る機会は多かったのだと思います。
当時の琵琶湖沿岸には芦が生い茂っていたのでしょう。漁夫のものか、追手のものか、篝火が見えます。あの火が消える、すなわち明朝には己の命運も尽きるであろう、という悲しみが「ともに消えゆく」という言葉に強くにじんでいます。
黒田官兵衛の哲学がよく表れている辞世の句
「おもひおく 言の葉なくて つひにゆく みちはまよわじ なるにまかせて」
作者は、豊臣秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛です。同じ秀吉の軍師であった竹中半兵衛と並べて「戦国の両兵衛」と称された官兵衛ですが、秀吉の天下取りが進むにつれ、その知略を主君から恐れられるようになりました。
そのため、野心なき事を示すために出家した官兵衛ですが、関ヶ原の戦いでは九州の諸城を攻め落とすなど、天下をうかがう動きを見せた事でも知られています。
関ヶ原の戦いの4年後、官兵衛が詠んだ辞世の句の意味をご紹介します。
「この世に思い残すことなどなにもない。
こうして死にゆくこととなったが、道に迷うようなことはあるまい。
なるに任せてゆくだけである。」
秀次のような澄み切った心境が詠まれていますが、心情においてはまた異なっています。黒田官兵衛は、如水という法名を用いました。この「水の如く」とは官兵衛の哲学でもあったのでしょう。死に際しても動じることはなくいつも通りでよい。それが「なるにまかせて」という言葉によく表れています。
この記事のまとめ
今回は、戦国武将が詠んだ有名な辞世の句を5つ、その意味と共にご紹介しました。
こうして眺めると、死に際しての面持ちはそれぞれ違っており、死を受け入れられるかどうかは、地位や名声を得ていたかどうかとはあまり関係がないようです。
辞世の句が、いかにその人の生き様をよく表すものかが分かりますよね。