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斎藤道三といえば、油売りの行商人から身を興し、美濃一国を支配した戦国大名で下剋上の代表的存在といわれてきました。

しかし、実は親子二代にわたる国盗物語だったのではないか、とされつつあります。

今回は、従来語られてきた斎藤道三のプロフィールや道三の家臣団、そして史料研究により、新たに道三の父だとされた松波庄五郎について解説します!

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従来語られてきた「斎藤道三」ってどんな人?


まずは「斎藤道三」がどんな人だったのかを、従来語られてきた説をもとにわかりやすくご紹介します。

道三は1494年(または1504年)に山城国(今の京都)で生まれました。幼名は峰丸といい、11歳の時から京都・明覚寺で「法蓮房」と名乗る僧になります。後輩で学友の日護房が美濃国・常在寺へ住職として赴くとき、還俗してこれに便乗します。その後、松波庄五郎と名を改め、油問屋・奈良屋又兵衛の娘を娶り商人となります。
(以降、名前は全て斎藤道三で統一します)

さらに武士を志し、日護房のつてで美濃国守護の土岐氏に仕える永井長弘の家臣・西村家を継ぎ、西村勘九郎正利と名乗りました。そこから彼は、「蝮(まむし)」と呼ばれる策略家になるのです。

武士となった道三は次第に出世するようになり、守護の土岐頼武の弟・頼芸に気に入られるようになります。そして頼芸をそそのかし、彼の兄、頼武を追放して頼芸を守護に据えると、その家老職につきます。そして頼芸の愛妾だった深芳野をもらい受け、不仲になった長井長弘を謀殺、長井家を乗っ取りました。1530年頃の出来事だと言われており、この頃から長井規秀と名乗っています。また、1538年には守護代の斉藤利隆が死去したあとの斉藤家を相続し、斉藤利政と名乗ります。

そして1542年には土岐頼芸を追放し、美濃国主となります。
またその6年後には娘を織田信長に嫁がせています。

1554年には、深芳野に産ませた嫡男の斉藤義龍に家督をゆずり隠居しますが、これは国内の政情の安定を図るためだったとされています。しかし、義龍は道三の実子ではなく土岐頼芸の子とも言われ、そのためか、しだいに道三と義龍とは不和になります。親子対決となった長良川合戦において道三は敗死、63年の生涯でした。

斎藤道三の父親、松波庄五郎とはどんな人物か


しかし、こうした道三の経歴は、実は彼の父親である松波庄五郎という人物の経歴が入り混じっている事が多いと言われています。

従来、彼の商人時代の名前であった松波庄五郎は道三自身のことと解釈されてきたのですが、1960年代からの「岐阜県史」編纂のなかで、それを覆す史料(1560年付の「六角承禎書写」)が発見された事により、道三の国盗りは彼の一代記ではなく、親子二代の物語だと考えられるようになったのです。

二人の世代交代の時期は1533年頃、つまり松波庄五郎が長井家を乗っ取った時期だと考えられています。この場合、父親の方を長井新左衛門尉、息子の方を長井規秀と指す事があります。

このことから、幼名・峰丸といい、妙覚寺の僧から還俗し、美濃で油売りをはじめたのは道三の父・松波庄五郎ということになるのです。

どこまでが松波庄五郎のしたことで、どこからが斉藤道三のしたことなのか、それは今後の研究による解明が待たれるところですが、少なくとも道三の父親である松波庄五郎も息子と同様、「蝮」という名に値する野心家だったと言えるでしょう。

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斎藤道三の家臣にはどのような武将がいたのか?


ところで、斎藤道三の家臣には、どんな武将がいたのでしょうか。
有名な五人の武将をご紹介します!

まずは、稲葉良通、氏家直元、安藤守就のいわゆる「西美濃三人衆」です。彼らはもと土岐氏家臣でしたが、斉藤道三、義龍と仕えたのち、道三の孫にあたる龍興を見限り織田信長に属します。一人目の稲葉良通は三人衆の筆頭格で、一鉄の名で知られています。頑固一徹の語源になった人物とも言われています。また、江戸幕府3代将軍である徳川家光の乳母、春日局の祖父に当たる人物としても知られています。

二人目の氏家直元は卜全(ぼくぜん)の名で知られ、最盛期は美濃国の三分の一を治める威勢がありました。のちに信長配下となり、伊勢長島一向一揆との戦いで戦死します。また安藤守就は信長に属したのち、罪を得て追放されます。本能寺の変ののち再起を期して蜂起しますが、稲葉一鉄に討たれました。

残る二人として、不破光治と明智光安をご紹介します。

先程「西美濃三人衆」という言葉を解説しましたが、この不破光治を加える形で西美濃四人衆と呼ばれる事もあります。不破光治は三人衆が離反したのちも斉藤龍興に忠誠を示すのですが、最終的には信長の家臣となります。その後は柴田勝家の下で北陸方面で活躍すると共に、信長の妹、お市の方と浅井長政の婚姻を取りまとめた事でも知られる人物です。

最後の明智光安ですが、本能寺の変で有名な明智光秀の叔父に当たる人物です。斉藤道三に接近するため妹を道三の継室にしますが、道三の死後、その跡を継いだ義龍と対立し明智城にて敗死します。落城寸前に息子・光春に宗家嫡男である光秀を脱出させ、間接的にその後の日本史を大きく転換させました。

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この記事のまとめ


今回は、従来語られてきた斉藤道三がどんな人だったのか、そのプロフィールとその家臣団、道三の父・松波庄五郎についてまとめてみました。

道三の一代記と思われていたものが、実は親子二代の下剋上ストーリーだったことで、道三の価値が下がったとする見方もあります。

しかし、道三当人はただ戦国の風雲のなかを駆け抜けただけといえるでしょう。彼が見込み、美濃一国を譲ると遺言した信長は、その後天下をほぼ統一します。確かな人物眼があるのに息子・義龍を見誤ったことは、道三のせいというよりも歴史の大きな皮肉と言えそうです。