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あの織田信長より前に京都を支配し、事実上の「天下人」と言われた三好長慶

彼が長生きしていたら戦国の世は、また違った結果となったかもしれません。

このページでは、そんな三好長慶の軍事、内政、外交面における評価を検証してみたいと思います。また、同世代の人物である足利義輝との関係にも注目です!

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三好長慶の軍事面における能力、評価とは?


まずは三好長慶の軍事面における評価について見ていきましょう。

長慶を一言で言えば「早熟の天才」という事になるのでしょうか。わずか12歳で主君にあたる細川晴元と本願寺の一向宗との和睦を仲介し、その6年後にあたる1539年は上洛して晴元、そして室町幕府12代将軍である足利義晴を近江国へ追いやっています。更にその3年後には、かつて自分の父、三好元長を死へ追いやった木沢長政を敗死させており、その軍事面における能力が伺えます。

その後も長慶は同じく父を敗死させた一族の三好元長をはじめ、かつての主君である晴元、室町幕府13代将軍にあたる足利義輝、そして足利将軍家をバックアップしていた六角義賢と戦いながら、最終的には畿内の大部分を勢力下におく支配者になるのです。その背景にあったのは、優秀な3人の弟たちや貿易によって得た莫大な富もありましたが、長慶自身も兵を率いて戦っており、その軍事面における評価はかなりのものだったと思われます。

その一方で、長慶自身の性格は良く言えば寛大、悪く言えば優柔不断なものでした。主君筋にあたる晴元や足利義輝とは何度も戦いながらも、最後まで追い詰めるような事はしませんでした。また、晩年の長慶はうつ病になっていたとされ、死の直前に弟の安宅冬康に自害を命じたのも、冬康が自分を殺そうとしているため、あるいは無理心中の形で行動に及んだという説もあります。

晩年の長慶は連歌を好んだとされていますが、この趣味が彼の勇猛さを失わせたという見方もあります。一説によると、長慶は畿内の支配者になった段階でやる気がなくなった、という見方もあります。その前半生から軍事能力は間違いなくあったと思われる長慶ですが、晩年を見ると、同世代の武田信玄や上杉謙信などと比べると、個人的にはどうしても弱々しい評価を下さざるを得ないなあと感じますね。

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三好長慶の内政面における評価とは?


続いて、三好長慶の内政面における評価についても解説します。

その最盛期には畿内の支配者になった長慶ですから、その内政、外交における能力はかなりのものだったと思われます。また、織田信長と同様、貿易によって富を得るために堺の町へ目を付けていた事も、長慶の内政面におけるセンスの良さを感じさせます。これについて大阪市立大学の仁木宏教授は、「長慶は信長に先行して斬新な政策を行った」と、その先見性を高く評価しています。

また、長慶は淡路を治めさせた安宅冬康、そして讃岐国を治めさせた末弟の十河一存を、それぞれ地元の国人の養子へ送り込んでいます。自分の縁者を養子にしてその家を乗っ取る点は、かの毛利元就を彷彿させますね。これ以外にも、支配下の国人政権内部にを組み入れる事で、その膨大な領土を支配する事に一時的とは言え成功しています。こうした統治システムは信長にも受け継がれており、その点において長慶の内政面におけるリーダーシップは、少なくとも全盛期においてはかなりのものだったと思われます。

そして本国の阿波を次弟の義賢に任せる事で、自分は畿内における活動に専念出来るようにしました。長慶は1539年以降は阿波には戻っていないため、この戦略は正解だったのでしょう。
ただし、三好政権はあくまで長慶や弟たちの個人的な能力に依る部分が大きい面がありました。そのため長慶や弟たちの死後、三好政権は一気に崩壊していく事になります。自分がいない時の事まで考えが及ばなかった点において、長慶の政治家としての評価はやや減点になってしまいますね。

三好長慶の外交面における評価とは?


一方の長慶の外交面の評価はどうでしょうか。

長慶の外交政策を見ると、足利義晴、義輝親子をはじめ、父を死に追いやった細川晴元や三好政長、木沢長政、あるいは六角義賢、畠山高政といった周辺の勢力と時には争い、時は和睦するといった過程の繰り返しだと言えそうです。ただし、長慶本人には室町幕府というシステムを崩壊させる気は無く、1550年に京へ入る時も、晴元と対立していた細川氏綱を形式的な主君して、室町幕府内における自らの正当性をアピールする事も忘れていません。

また、1550年代以降の長慶の外交政策で目につくのは、敵対する相手を追い詰めたとしても滅ぼす事はなかった点です。それ以前の長慶は三好政長や木沢長政を滅ぼしているのですが、これが主君筋にあたる細川晴元になると、何故かこうした果断さは影を潜めてしまいます。そして1561年に、長慶は晴元と再度和睦をするのですが、この時長慶は晴元に隠居領を与え、晴元の晩年の生活を保証したりもしています。

また、長慶は朝廷や公家に対しては比較的友好的でした。長慶は正親町天皇の即位式に参加したり、朝廷へ献金を行ったり、また公家の人々と共に連歌を楽しむ趣味もあったと言われています。一方の朝廷も全盛期の三好政権については協力的で、長慶の嫡子義興に対して従四位下の官位を与えた記録が残っています。

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三好長慶と足利義輝の関係はどのようなものだったのか?


また、三好長慶を語る上で欠かせないのが、室町幕府13代将軍、足利義輝です。
この二人は一体どのような関係にあったのでしょうか?

足利義輝とその父親の義晴はもともと、家臣であるはずの細川晴元と度々対立していました。しかし、晴元の家臣であった長慶が晴元を裏切ると、晴元はまだ若い義輝を連れて京都から脱出します。1552年に、義輝は長慶と和睦して京都に戻りますが、その翌年には義輝は晴元と組み、長慶と戦う事になります。義輝と晴元には近江国の大名である六角義賢が見方しますが長慶が優位である事に変わりはなく、最終的には1558年、義輝は長慶と和睦して再度、京都へ戻ります。

その後の義輝と長慶は、少なくとも表向きは協調関係にありました。長慶は嫡男、義興の一字に義輝の「義」の字を与えるなど、三好家と足利将軍家の新しい形での関係を築こうとしていた節があります。一方で長慶自身は義輝自身とは距離を置いて、京都にはやや遠い飯盛城に居城を移しています。長慶にとって義輝と足利将軍家は下克上の対象ではなく、本当は協力する形で政権を運営したかった対象だったのかもしれませんね。

この記事のまとめ


このページでは三好長慶の軍事、外交、内政面における評価、そして足利義輝との関係についてご紹介しました。

「下克上」という言葉の代名詞として知られながらも、三好政権自体が短期間で消えてしまった点、そして長慶の代わりに京都をおさめる信長と比べ既存の価値を重視する長慶の評価は、どうしても高く見積もれない部分があります。

弟の安宅冬康を自害させた、連歌好きでうつ病の傾向があるという面も、その家臣である松永久秀と比べるとどうしても弱々しい面がある気がします。ただそんな欠点も、三好長慶という武将の魅力なんじゃないかな、と私は思いますけどね。

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