%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_26_18_54 真田幸村の奮戦などで知られる大坂夏の陣ですが、そもそもこの戦いが勃発したきっかけは何だったのでしょうか。冬の陣後の和睦との間に、一体どのような出来事があったのでしょう。

合戦が行われた場所や、戦後に描かれた『大坂夏の陣屏風』についてもご紹介します。

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大坂夏の陣が勃発したきっかけはどのようなものだったのか?


まずは大坂夏の陣が勃発したきっかけを、簡単にご紹介します。

この戦いのきっかけは、大坂城に立て籠もっていた浪人たちが、冬の陣の講話によって埋め立てられた堀や塀を修復しようとした事や、彼らが乱暴や放火をしていた事にあると言われています。この噂を聞いた京都所司代・板倉勝重はこの事を家康に連絡し、大坂城にいる豊臣秀頼に対して浪人を追い出すか大坂城を出て行くかを迫ったと言われています。これに対して秀康が拒否したので、大坂夏の陣が始まったと言われています。

もっとも、家康はこの戦いの前に大砲を作らせるなど、戦争の準備をしていた面があります。もしかしたら戦いのきっかけとなった浪人の行動は、家康や板倉勝重による「でっち上げ」だった可能性があるのかもしれないと勘ぐってしまいますね。

大坂夏の陣が行われた場所を戦いごとに解説!


こうして始まった大坂夏の陣。
ではこの戦いは、今のどの場所で行われたのでしょうか。


大坂夏の陣で行われた戦いは、主に以下の5つに分けて説明できます。

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・郡山城の戦い
行われた場所は今の奈良県大和郡山市。豊臣秀頼の側近である大野治長の弟、治房がこの城を落としました。しかし、徳川勢の来襲の報を受けて、大坂城へすぐに退却しています。

・樫井の戦い
行われた場所は今の大阪府泉南市。大野治房の先鋒を務めていた塙団右衛門と紀伊国を治めていた浅野長晟による戦いです。大坂夏の陣本戦の前に紀伊国を制圧したかった豊臣勢ですが、塙団右衛門の戦死などの敗北によって挫折しました。

・道明寺の戦い
行われた場所は現在の大阪府藤井寺市。徳川勢は伊達政宗や水野勝成、豊臣勢は後藤又兵衛や真田幸村が激突しました。後藤又兵衛が戦死するなど徳川勢が優勢でしたが、真田隊の奮戦も凄まじく、疲れ果てて豊臣勢の追撃までは出来ませんでした。

・八尾・若江の戦い
八尾の戦いと若江の戦いの2つの総称。八尾の戦いの場所は現在の大阪府八尾市で、長宗我部盛親と藤堂高虎が共に大損害を受ける程の大激戦を繰り広げました。
若江の戦いの場所は現在の大阪府東大阪市で、木村重成が井伊直孝の隊に敗れ、戦死しています。

・天王寺・岡山の戦い
場所は現在の大阪府阿倍野区から平野区といった、大阪市の南にあたる地域。真田幸村や毛利勝永らの奮戦によって家康の本陣が崩される等、豊臣勢が最後の抵抗を見せた戦いです。双方合わせて20万以上の兵力が参陣した、戦国時代の中で最も規模が大きな戦いでもありました。

大坂夏の陣屏風はどんな風に描かれているの?


ところで、この戦いの後に書かれた『大坂夏の陣屏風』についてご存知ですか?

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この『大坂夏の陣屏風』は筑前国を治めてていた黒田長政が描かせたもので。5千以上の人馬をはじめ、槍やのぼり、鉄砲や弓がきめ細かく記されています。大阪城の天守閣で見る事ができ、また重要文化財にも指定されている作品である他、この時代の合戦を描いた屏風の中で最も素晴らしい作品だとも言われています。

作品の右半分は『天王寺・岡山の戦い』の開戦直後の様子が描かれているのに対し、左半分は大坂城落城後の悲惨な光景が生々しく描かれています。淀川を越えて、北へと逃げる豊臣方の惨敗兵と、周辺の避難民に略奪、誘拐、首狩りをしようとする徳川側の兵士の姿が生々しく描かれているのが特徴で、『戦国のゲルニカ』という呼称でも知られています。

この絵を生々しく描かせたのでしょうか?一つ間違えたら、幕府批判だと受け止められて、黒田家お取り潰しの危険性はあった事でしょう。実はこの絵は黒田家ではなく、この戦いで戦死した本多忠朝の実家にあたる本多家が、忠朝の奮戦の様子を描くために描かせたものだと言われており、それが黒田家との縁組の中で同家に与えられた説があります。

ただ、この説も確かなものではなく、現在の研究者の間でもこの屏風の作成の経緯については論争が耐えません。

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この記事のまとめ


このページでは大坂夏の陣が勃発したきっかけや戦いが行われた場所、そしてこの戦いを描いた『大坂夏の陣屏風』についてご紹介しました。

戦いが勃発したきっかけを見ると、江戸幕府は豊臣家をいずれは滅ぼすつもりだったのでしょうね。仮に秀頼が大坂城を退去していたとしても屏風の絵柄や合戦の場所が変わっただけだったでしょう。大坂夏の陣の合戦場は大阪府などにあるので、休みの日に行ってみるのもいいかもしれませんね。

なお、以下の記事では気になる「大阪城」と「大阪城」の違いなどを解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:大坂城の築城の経緯や大阪城との違いは?江戸城とどちらが大きい?