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豊臣秀吉が築城した事で知られる大坂城

ですが現在では「大阪城」という表記が知られていますよね。
この2つの違いは一体何なのでしょうか。

また、同じ天下人によって築城された江戸城と大坂城はどちらが大きいのか、そしてこの城の築城の経緯について、本願寺や江戸幕府にも触れながらご紹介します!

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大坂城の築城の経緯について。江戸時代の役割は?


まずは大坂城の築城の経緯を、簡単に見ていきましょう。

もともとこの地は、一向一揆などで知られる石山本願寺があった場所でした。この建物は、本願寺の礎を築いた蓮如がこの地に隠棲した事を機に建てられ、その後本願寺が細川家などと抗争を行う過程で堀などを作成する過程で、堅固な要塞へと変化していくのです。

その後、この地へ築城を行ったのは豊臣秀吉でした。大坂城が築城された場所は地の利に優れており、かつては信長もこの場所に城を建設することを考えていたと言われています。
本能寺の変の翌年の1583年、秀吉は大坂の城築城を開始します。最初の2年間で本丸の石垣、堀、そして天守が完成し、1年空いた1586年には二の丸・西の丸の工事が始まり、こちらも2年ほどで完成します。その後、三の丸の工事を行ったと考えられおり、秀吉の死の直前には、城下町までを囲み込む惣構が築かれました。

しかし秀吉の死後、大坂の陣が発生して「秀吉の大坂城」は灰燼に帰します。その後、松平忠明が城主となりますが、まもなく徳川幕府は大坂を直轄地とし、西国大名の動きをチェックする大坂城代を設置します。
そして大坂城の再建が始まります。この時の築城が秀吉の城の上に土を盛り、土塁と巨大な石垣で地下に埋め込む形で行われました。天守も新たに築かれた「江戸幕府の大坂城」は10年の期間を経て築かれます。しかしこの天守はその36年後の1665年、落雷のため焼失してしまいました。

その後長い間、天守がない期間が続きました。この城の天守が復興されるのは1931年の事で、3年前に即位した昭和天皇の即位を祝う目的で開始されました。市民の寄付金も集まり、秀吉時代の天守を摸したとされる天守を含む、現在の「大阪城」が復興されたのです。

※参照:江戸幕府を小学生向けにわかりやすく解説。年表や安定した理由は?

「大坂城」と「大阪城」の違いとは?


ところで、上では「大坂城」と「大阪城」という2つの言葉が出て来ましたよね。
「大坂城」と「大阪城」には、何か違いがあるのでしょうか。

結論を言えば、この2つの表記はいずれを使っても構わない事になっています。ただ、一般的に明治以前の”おおさかじょう”を指す時は「大坂城」、明治以降の”おおさかじょう”を指す時は「大阪城」と言う事が多い傾向にあります。

なぜ「大坂」から「大阪」に変わったのかと言うと、前者の「坂」の字が”土に反る”という意味になり、これが縁起が悪いという事から江戸時代の頃から「大阪」という表記が使われ出したそうです。1868年に明治政府にが設置したのは「大阪府」だったので、これによって「大阪」が正式な表記となったと考えれられます。もっとも、明治10年頃までは「大坂」と「大阪」いずれも使われていたとされ、どちらを使っても構わない時期があったと言われています。

ちなみに、「おおさか」の読み方は「おさか」や「おおざか」というものもあり、この表記も「小坂」や「尾坂」というものも知られています。
表記が「大坂」になるのは戦国時代の頃で、秀吉がこの地に城を築いた頃には「おおさか」や「おおざか」という読みが使われるようになりました。

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大坂城と江戸城って、どちらが大きいの?


巨大な城として知られる大坂城。
では、同じ天下人の城として知られる江戸城とは、どちらが大きいのでしょうか?

結論を言うと、江戸城は大坂城よりさらに大きな城でした。
この2つの大きさを比較してみましょう。

まずは、城のシンボルである天守の大きさです。秀吉の大坂城天守閣は、屋根は5重で内部は6階です。これに地下2階分が加わりますので、全体で8階になります。1階の大きさは北辺約22メートル、西辺約20メートルで、地上からの高さは約49メートルです。

一方の江戸城の天守閣は5重5階建てで、地階がついていました。1階の大きさは、約33メートル×約29メートルです。棟高は約48メートルで、約20メートルの天守台の上に載っていました。地上からの高さは約68メートルになり、大坂城より19メートル高い事になります。つまり高さ、広さともに、江戸城の天守閣のほうが大きい事がわかりますね。

次に、城の広さとその面積についてみたいと思います。

秀吉の大坂城は、秀吉晩年に作られた惣構が、2000メートル四方と考えられており、これを踏まえると面積は4平方キロメートルになります。一方の江戸城は、城の主体部分である内郭が4.2平方キロメートルであり、また外郭である外堀の内側は21平方キロメートルになるため、秀吉の大坂城の惣構までの広さが、江戸城の内郭に収まる事になってしまうのです。

何が何でも大坂城より広い城を作りたかった・・・とまで江戸幕府が考えていたかは分かりませんが、江戸城の城郭は大坂城のそれを凌ぐ、遥かに巨大なものだったのです。

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この記事のまとめ


今回は、以下の3点についてご紹介しました。

・大坂城の築城の経緯
・「大坂城」と「大阪城」の違い
・大坂城と江戸城はどちらが大きいのか


豊臣秀吉が壮大な構想の下、天下無双の巨城として築いた大坂城。文字通りの天下無双の巨城だったのです。秀吉がその才能と経済力をかけてつくった城ですので、大きさだけでなく、豪華さや堅固さも、当時並ぶもののない巨大な城郭だったと言えるでしょう。

これを踏まえたのか、江戸幕府は大坂城より大きい江戸城を築き、同時に西国大名の監視もかねて大坂城を再建します。自らのが滅ぼした大坂城を埋め込んでしまう事で、秀吉時代の権威を打ち消そうとしたのでは…なんて事を思ってしまいますね。

※参照:大坂夏の陣のきっかけや場所を解説。『大坂夏の陣屏風』とは?