%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_22_12_36 井伊家と言えば、一時期は今川家の家臣だった時期もありましたが、それ以前の両者は敵対関係にありました。この今川家に従属したときの井伊家当主が、今回の主人公の井伊直平です。

このページでは井伊直平がどんな人だったのかを、その息子たちや墓所についても触れながら、わかりやすくご紹介します。

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井伊直平ってどんな人?わかりやすく解説!


まずは井伊直平がどんな人だったのかを、簡単に見ていきましょう。

井伊直平は1479年(または1489年)に、井伊家の15代目当主、直氏の子供として生まれました。直平誕生時の井伊家は遠江国の井伊谷を拠点とする国衆で、尾張国守護の斯波氏に属していました。しかし、斯波・井伊の連合軍が今川氏に敗れ、頼みの綱であった斯波氏が撤兵すると、井伊谷は戦勝国・今川の統治下となるのです。

今川家が義元の代になると、その相談役である太原雪斎(たいげんせっさい)の助言もあり、井伊家は晴れて(?)今川家臣となりました。逆に考えると、今川は常に「井伊は裏切るかもしれぬ」という先入観をもっていたとも考えられます。

実際、ここから井伊家の苦難の歴史が始まります。

井伊直平が家督を譲った子の直宗が1542年に田原城攻めにて討死したのを皮切りに、子の直満と直義が家老、小野政直の懺悔によって1544年に自害に追い込まれます。更には孫にあたる直盛、直親も若くしてなくなり、井伊家は次々と後継者を失っていくのです。

直親が今川方の手によって誅殺されたとき、残された嫡男・直政はわずか2歳でした。そのため、隠居の身であった直平が後見役となり事実上の再登板をするも翌1563年に急死。85歳とも言われている直平の最後は普通であれば大往生ですが、その死は謎に包まれています。
戦死したとも毒殺されたとも言われているのですが、少なくとも今川家に背いた天野景泰親子を攻めている過程でなくなったのは確かなようです。

己の武運つたなく、それ故に今川に属したものの、子孫がつぎつぎ斃れてゆく様を眺めつづけた生涯は、常に自責の念とともにあったように思えてなりません。

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井伊直平の息子にはどんな人物がいたのか


この井伊直平ですが、実は何人かの息子たちがいました。直平の子供たちには史料によって多少の相違がありますが、ここでは比較的多く採られている説により、一人ずつコメントします。


・嫡男・井伊直宗
今川氏の対織田戦に従軍し、田原城攻めにて討死しています。
その最期は、野伏に討たれたものだったと言われています。
(跡を嫡男の直盛が継いでいます)

・次男・南渓瑞聞(南渓和尚)
非常に機転のきく人だったらしく、直満自刃の当時、幼少の直親を信州・松源寺に逃がしたり、直虎出家の折には尼でなく僧(次郎法師)として出家させ、のちのおんな城主誕生に一役かっていたりします。
(ただし、実子ではなく養子説もあり)

・三男・井伊直満
側室の子で傍系の直満は、宗家を継ぐべき立場ではなかったところ、嫡男の直親が長兄・直宗の娘(直虎)の許嫁となったことで増長し、井伊宗家の家老・小野通高と衝突。通高の讒言により自刃に追い込まれてしまいました。

・四男・井伊直義
兄・直満とともに小野通高の讒言により自刃しています。

・五男・井伊直元
井伊形部少輔直元と名乗っていたようです。
ただ、それ以外の詳細はあまり知られていません。


また、井伊直平には娘が居たと言われているのですが、この女性は徳川家康の正室となる築山殿の母親にあたる人物だとも言われています。従来では、築山殿は今川義元の娘だと言われていたのですが、実際は養女だという説が近年有力になっています。

井伊直平の墓所はどこ?龍潭寺ではない理由とは?


最後に、井伊直平の墓所についてご紹介します。

井伊直平の墓所は、今の浜松市北区佐町川名にあります。

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また、直平の菩提寺は、同じく北区にある渓雲寺です。

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ところで、井伊家の菩提寺と言えば同じ浜松市にある龍潭寺が有名ですよね。では何故、井伊直平はこの龍潭寺にまつられていないのでしょうか。

この疑問を紐解いていくと、とある1人の忠臣へと辿り着きます。1563年、今川氏真による対織田戦に従軍した直平は、強風により陣中に失火を起こしてしまいます。「反乱ではないか?」との今川からの詰問に直平は毅然と否定しますが、その代償として、反今川に転じた天野氏討伐を命じられます。

この天野氏討伐の際に直平は急死するのですが、一説には道中立ち寄った飯尾連竜の館にて、その妻・田鶴の方に毒殺されたとも言われています。
この時、直平の従者を務めていた大石作左衛門という人物が、生まれ故郷の川名まで直平の亡骸を運び埋葬した後、自身も追腹を切ったとされています。

井伊直平の墓所が龍潭寺ではないのは、この大石作左衛門の忠義を祀る意味が込められているのかもしれませんね。

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この記事のまとめ


井伊直平がどんな人だったのかを、その息子や墓所を含めてまとめてみました。

85歳まで生きたと言われる直平。その分の苦しみも、非常に多かったのではないでしょうか。
そう考えると、ひょっとしたら生前から「わしには皆と同じ墓に入る資格がない」等と大石作左衛門あたりに、どこか別に埋葬するよう命じていたのでは…といった事もつい考えてしまいます。

しかし直平の死後、井伊家を継いだ井伊直政は徳川四天王の1人に数えられる程の大活躍を見せます。直平の苦心は決して無駄ではなかったという事ですね。

なお、以下の記事では井伊直平も含めた井伊直虎や井伊家の家系図について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:井伊直虎の家系図を解説。井伊家のその後も気になる!