%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_22_11_58 大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公にあたる井伊直虎の父親にあたるのが、このページで解説する井伊直盛という武将です。一体どんな人だったのでしょうか。

このページでは、井伊直盛がどんな人だったのかを、その妻で直虎の母親でもある祐椿尼という女性と共にわかりやすくご紹介します。

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井伊直盛ってどんな人?分かりやすく解説!


まずは井伊直盛がどんな人だったのか、簡単ご紹介します。

井伊直盛は1526年(1506年説もあり)に、井伊家当主だった井伊直宗の子供として産まれます。しかし父、直宗が1542年に戦死したため、16歳前後で井伊家の家督を継ぐ事となりました。同時に、今川家の家臣である新野親矩の妹を妻に迎える事になります。

直盛の生涯は、井伊家の存続に腐心した人生だった言っても過言ではないでしょう。妻との間に産まれたのは男子でははなく女子(後の井伊直虎)であったため、叔父・直満の嫡男である直親を娘(直虎)の婿養子に、と動くのですが、ここで内紛が勃発するのです。

1544年、対立していた井伊家家老、小野道高の讒言により、直満とその弟・直義が自刃。そして年若い直親も討手を避けて落ちのびるという事態になってしまいます。まだ20歳にもなっていない直盛少年にとって、この出来事は試練の連続だったに違いありません。

井伊谷に戻った直親を直盛の養嗣子にするためには、小野道高の死までの10年あまりの歳月を待たねばなりませんでした。待ちに待った跡継ぎに、これで井伊家も安泰……と、直盛は安堵したことでしょう。

しかし、その安泰を直盛が目にする事はありませんでした。1560年の桶狭間の戦いで、直盛は今川家の先鋒に任命されます。しかしこの戦いで今川家は大敗北を喫し、その中で直盛は討死してしまうのです。

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井伊直盛の妻、祐椿尼とはどのような女性だったのか


井伊直盛の妻はどのような人物だったのかも気になりますね。

直盛の妻は祐椿尼(ゆうしゅんに)という名前で知られています。
大河ドラマ「おんな城主直虎」では千賀という名前で登場していますが、恐らくこの名前はドラマオリジナルのものだと思われます。
(以降、祐椿尼という名前で統一します)

祐椿尼の生年は分かっていませんが、今川家の家臣、新野親矩の妹にあたる女性だと言われています。この新野親矩という人物は今川家の一族だったものの、直盛死後の井伊家のピンチを何度も救った人物として知られています。しかし、彼も1563年に戦死してしまうので、井伊家はまたしてもピンチを迎える事になるのですが…

「祐椿尼」という名前は尼になってから名乗った名前で、どうやら夫である直盛の死後、彼女は出家したと言われてます。ちなみに「祐椿尼」という名前には「椿(つばき)」という文字がありますが、これは彼女が椿の花が好きだった事から名乗った名前なのだとか。その後は、井伊家の菩提寺の住職であり、夫の叔父にあたる南渓和尚と協力して娘の直虎を井伊家の当主にする役割を果たしました。

また、夫の跡を継いだ婿養子の直親の忘れ形見である虎松(後の井伊直政)を、直虎や直親の妻にあたる女性と3人で行ったり、1575年に虎松が家康に仕えた際には、彼に小袖を与えたという逸話が残っています。そしてその3年後、祐椿尼はなくなったと言われています。

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この記事のまとめ


井伊直盛がどんな人だったのかを、妻の祐椿尼と共にご紹介しました。

桶狭間の戦いによって戦死してしまった井伊直盛。しかし妻の祐椿尼は娘の直虎ら井伊一族と共に、1578年に亡くなるまでお家存続のために力を尽くしました。
幾度となく窮地に陥る井伊家の人々をみていると、戦国の世を乗り越えることの難しさや運命の儚さ、だからこそ思いを一つに力をあわせる人々の頼もしさを強く感じますね。

なお、以下の記事では井伊直虎や井伊家の家系図について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:井伊直虎の家系図を解説。井伊家のその後も気になる!