2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公として知られる北条義時ですが、どんな人なのか知ってますか?

北条義時は、鎌倉幕府をたちあげた源頼朝に仕え、その後は執権政治を確立して武士の世の中を盤石にした人です。鎌倉時代って難しい!!と思っている中学生の方もいると思いますが、調べてみるととても人間味あふれた人物がたくさんいるんですよ。

今回は、北条義時がどんな人だったのかを年表も使いながら中学生向けに解説します。
また、執権政治がどのようなものなのかも見ていきましょう!

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北条義時ってどんな人?中学生向けに解説してみた


まずは北条義時がどんな人だったのか、中学生の方向けにご紹介します。

義時は1163年、伊豆国(今の神奈川県)でうまれました。
お父さんは北条時政、お姉さんは北条政子です。
政子も源頼朝の妻として有名なひとですね。

若いころの義時は、源頼朝からとても目をかけられていたようです。
1181年、18歳の時に義時は頼朝の寝所の警護をする11人の一人に選ばれました。
この時代、寝所は戦場での緊張感から解放される唯一の場所だったと言えます。そんなプライベートな場所での警護をまかされるということは、義時はかなり篤い信頼を頼朝からえていたと言えるでしょう。
※参照:源頼朝のプロフィールや年表を小学生向けにわかりやすく解説

義時は源平合戦でも活躍しています。頼朝と平家の最初の戦いである「石橋山の戦い」をはじめ、「鉢田の戦い」「富士川の戦い」にも従軍。
奥州藤原氏との戦いにも参加しています。
1192年には頼朝の紹介で結婚。仕事もプライベートも順調な時期でした。

1199年には源頼朝が亡くなります。
頼朝の子どもである源頼家が跡をつぎますがまだ18歳。頼家の独裁を抑えるために、有力御家人13人による合議制が始まりました。(十三人の合議制)義時は最も若いメンバーとして、お父さんの時政とともに参加しています。

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1205年にはお父さんの時政が失脚し、義時はその後継者として2代目の執権となります。
このころには十三人の合議制は崩れており、姉の政子と協力しながら、鎌倉幕府の事実上のトップとして政治を行いました。

1221年、後鳥羽上皇による倒幕計画が発覚します。これがいわゆる「承久の乱」です。
義時は御家人のリーダーとして朝廷側と戦い勝利。
敗れた後鳥羽上皇は隠岐へ流されてしまいました。

※参照:承久の乱を中学生向けに解説。場所やその後の意義は?

承久の乱後、義時は京都の情勢を監視するために「六波羅探題」を設置しました。
こうして北条氏の権力を拡大することに成功した義時でしたが承久の乱の3年後、1224年64歳で心不全のために亡くなりました。
義時の後の執権は息子の北条泰時がつぎ、北条氏の力はさらに強くなっていきます。

北条義時の年表を中学生にもわかるように解説


ここでは北条義時の年表を、中学生の方にもわかりやすくご紹介します。

1163年
北条時政の次男として伊豆国で産まれます。

1177年ごろ(14歳)
姉の政子が源頼朝と結婚します。
※参照:北条政子ってどんな人?年表や承久の乱を小学生向けに解説!

1180年(17歳)
源頼朝が挙兵。父の時政と頼朝に従います。
石橋山の戦いで平家に破れ、兄の宗時が戦死します。

1181年(18歳)
頼朝の側近になります。

1183年(20歳)
後の3代執権となる北条泰時がうまれます。

1199年(36歳)
頼朝が亡くなったことで、13人の合議制のメンバーになります。

1203年(40歳)
比企能員の乱。
鎌倉幕府の2代将軍・源頼家(頼朝の長男)の妻の実家である比企氏をほろぼします。

1204年(41歳)
源頼家を暗殺します。

1205年(42歳)
畠山重忠の乱によって父・時政と対立するようになります。
姉の政子と協力し、時政を伊豆に追放。
2代目の執権となります。

1213年(50歳)
和田合戦。有力な御家人・和田義盛を滅ぼします。
この頃から、鎌倉幕府の最高実力者となります。

1219年(56歳)
鎌倉幕府の3代将軍・源実朝が殺されます。

1221年(58歳)
承久の乱が発生。後鳥羽上皇率いる朝廷側を破ります。

1224年(62歳)
心不全で亡くなり、長男の北条泰時が跡を継ぎます。
翌年には姉の政子も亡くなっています。

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義時の人生を見ていくと、戦いの連続のように見えます。
しかしもともとは伊豆の豪族の次男であり、武士の最高実力者になろうとは、本人も思ってはいなかったのかもしれません。
人生とは何が起こるのか分かならないなあと、義時の人生を見ていると感じますね。

執権政治とはどのようなものだったのか


北条義時といえば、鎌倉幕府において執権政治を確立した人物としても知られています。
ですがこの「執権政治」、なんだかむずかしいな~と思いませんか?
改めてわかりやすくご紹介します。

執権政治とは簡単にいうと、北条氏が鎌倉幕府で政治の実権を握った政治体制のことです。
※参照:鎌倉幕府の年表や役職を解説。場所やその跡地にも迫る!


そもそも「執権」って何?と思いますよね。


執権とは、鎌倉幕府における将軍を補佐する役職のことです。
当初は幕府の一つの役職に過ぎませんでしたが、後に政治における最高実力者となり、北条家が世襲で就くこととなりました。

執権が始めて登場したのは1203年、鎌倉幕府3代将軍の源実朝からです。初代の頼朝、2代目の頼家までは将軍が政治の実権を握っていましたが、3代目の実朝からは将軍はお飾りになり、執権が政治を行うことになりました。
そのきっかけを作ったのが、義時の父親である北条時政でした。

※参照:北条時政の生い立ちや出身地の伊豆について解説。父親は誰なのか?

その後、時政は実朝までも殺そうとしますが、これに反対したのが義時と政子でした。
この2人は協力して時政を伊豆に追放し、義時がかわりに2代目の執権になります。

その後、義時は敵対する御家人を滅ぼし、執権政治の基礎を固めていきます。
3代目将軍・実朝の死後は執権が鎌倉幕府の事実上のトップとなり、義時の後継者である北条泰時のもとで盤石な政治体制が築かれていきます。
執権政治は1233年、鎌倉幕府が滅亡するまで続きました。

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まとめ


北条義時がどんな人だったのかを、年表や執権政治を交えて中学生の方向けにご紹介しました。

義時は父の時政、姉の政子の陰になりがちですが、争いにつぐ争いの中で覇権を手に入れて執権政治を作った、強い意志のある武将だったと思います。

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では主役となる義時。演じるのは俳優の小栗旬さんです。小栗さんがどのような義時を演じるのか、今から楽しみですね!