鎌倉幕府の初期に活躍した源頼朝や北条義時。
そんな彼らを陰ながら支えたのが、この記事で取り上げる大江広元です。
その人物像は、一体どのようなものだったのでしょうか。
源頼朝や北条義時との関係にも触れながら、大江広元についてご紹介します。
大江広元の人物像はどのようなものだったのか?
まずは大江広元の人物像をわかりやすくご紹介します。
広元は1148年に生まれ、1225年に78歳で亡くなりました。
当時としては非常に長命だった人物ですが、その人物像を伝えるエピソードとして「成人してから涙を流した事がない」というものがあります。
広元は後述するように、行政官僚として非常に有能な人物であり、また承久の乱では長男が朝廷側に味方する等の経験もしています。公私の区別がしっかりでき、かつ自身の感情のコントロールも非常に高いレベルで出来る人だったのかな?と感じますね。
ちなみに広元は当初「中原(なかはら)広元」と名乗っていました。これは諸説ありますが父親が「大江維光」という人物で、「中原広季」という人物の元へ養子になったとも、あるいはその逆であるとも言われており定かではありません。
ただ「大江」という氏は当時、格式があった一方で衰退する傾向であり、これを見過ごせなかったため広元は「大江広元」と名乗ったという説があります。
もともと広元は京都の下級貴族であり、こうした伝統に対する敬意を持っていた人物だったのかもしれません。
大江広元と源頼朝の関係はどのようなものだったのか?
そんな大江広元が歴史の表舞台に登場するのは、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝との関係による所が大きいと言えます。
広元と頼朝の関係はどのようなものだったのでしょうか。
※参照:源頼朝の性格や家紋を解説。死因は暗殺だったのか?
この2人の関係を語る上で欠かせないのが、広元の兄・中原親能(なかはら ちかよし)の存在です。
広元や中原親能はもともと下級貴族の出でしたが、親能は幼い頃、相模国(今の神奈川県)の人に育てられていたと言われており、その縁で伊豆に流されていた源頼朝と親交があったそうです。
やがて源氏が挙兵すると、親能は頼朝と京の貴族との折衝役として活躍します。そのツテで、親能の弟である大江広元も頼朝に仕えるようになったと言われています。
頼朝に仕えた広元が担当したのは公文所(くもんじょ)という、公文書の管理を行う役職の別当(長官、トップ)でした。公文所が政所になると引き続きその別当として活躍します。
また、頼朝は1185年に守護・地頭を全国に設置しますが、その発案者は広元だと言われています。同じ年に広元は正五位下に昇叙してますが、この位は幕府内で頼朝に次ぐ位置(ナンバー2)でもありました。頼朝がいかに広元を信頼していたかが分かりますね。
武家政権を樹立する頼朝にとって、広元は非常に頼りになる実務家という立ち位置だったと考えられますね。
北条義時の政務を支え続けた大江広元の存在感
1199年に頼朝が亡くなった後も、大江広元は引き続き鎌倉幕府の政務に関わっていきます。頼朝死後に幕府の実権を握った北条義時や北条政子との関係も良好なものでした。
1213年に勃発した和田合戦では、大江広元は北条義時とともに連署をしました。これは軍勢の招集をするもので、御家人からの信頼の厚い大江広元が連署したことで、義時は和田義盛に勝利。北条氏はその後も政権を維持できました。
この功績のためか、広元は戦後に武蔵国横山荘を与えられています。
※参照:和田義盛ってどんな人物?出身や侍所別当としての事績について!
1221年の承久の乱では、長男の大江親広(おおえ の ちかひろ)が朝廷側に味方する中、広元は幕府側につき主戦論を唱える北条政子をバックアップします。この時、朝廷との戦いに意欲的でない御家人の数は決して少なくなかったのですが、広元はそんな御家人たちを説得し、幕府側として戦わせる事に成功したのです。
その3年後に義時が死去し、その子泰時が執権になった際にも広元はその就任を助けました。そして広元は翌年の1225年に死去。同じ年に政子も亡くなっており、これ以降は泰時が執権として鎌倉幕府を率いていく事となります。
このように、大江広元は様々な立場で北条義時に力を貸してきました。なお広元は1214年に正四位下に任じられてますが、一方の北条義時の官位は従四位下であり、義時より広元の方が官位においては上だった事も見逃せません。
まとめ
大江広元の人物像や、主君である源頼朝、幕府内の同僚でもある北条義時との関係についてまとめてみました。
もともと京都の下級公家だった広元ですが、源頼朝に仕え、「13人の合議制」に加わるなど鎌倉幕府の創設に深く関わります。北条義時の執権としての活躍においても広元の存在は見過ごせず、広元は頼朝や義時から絶大な信頼を寄せられていたと言えるでしょう。
なお、広元といえば戦国武将・毛利元就の祖先としても知られる人物です。毛利元就については以下の記事でご紹介しているので、宜しければご覧になってみて下さい。
※参照:毛利元就の性格や家紋について。兜が2種類あった!?