%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%88_2016-12-09_12_38_01 鎌倉幕府を開いた源頼朝ですが、その性格や使った家紋はどのようなものだったのでしょう。

死因についても暗殺説が残るなど、謎が多い点も興味深いですよね。

今回は、源頼朝の性格や家紋、暗殺説も存在するその死因について検証しながら、頼朝という人物について深掘りしてみました。

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源頼朝の性格はどんな感じ?


まずは源頼朝の性格を踏まえながら、その人物像について見ていきましょう。

頼朝の性格と言えば、冷酷で疑心暗鬼な点が思い浮かぶ方は多いと思います。平家討伐に大きな功績を残した弟の源義経や源範頼をはじめ、叔父の源行家やいとこの木曽義仲の子供である源義高など、自分に反する動きを見せそうな人物であれば、例え血を分けた一族でも容赦はしない人物だった事はよく知られていますよね。

※参照:平清盛と源頼朝の違いや性格を比較。もしも戦いがあったら?

また、頼朝の性格と言えば慎重な点もよく指摘されます。1180年の富士川の戦いで平家軍に勝利した後、三浦氏など有力豪族の意見を聞き入れて、平家軍の追撃をして西上せず関東平定を優先させました。その過程で東国武士を基準させた頼朝ですが、臣従した武士一人一人を自室に呼んで、直接「お前だけが頼りだ」と言っていたエピソードも残されています。コミュニケーションの取り方が上手な、根っからの政治家向けの人物だったのでしょう。

他には、質素倹約を重んじたエピソードも残されています。自分の側近である藤原俊兼が贅沢な衣服を着ているのを見た頼朝は、俊兼の小袖を刀で切り「お前は才能に富んだものなのに、倹約と言うことを知らない」「今後は華美を止めよ」と説教して、側面の奢侈を戒めた逸話も残されています。

こうした頼朝の性格を見ると、良くも悪くも合理的に物事を考える人物だったのでは…と思えてしまいます。普段の頼朝は軽率な発言はめったにせず、自分の弱みを周りに見せたがらない人物でした。こうした頼朝の性格は、多くの東国武士の支持を集め、後世に至るまで多くの武士の尊敬を集めています。

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源頼朝の家紋は何なのかを解説!


それでは、源頼朝が使った家紋はどのようなものだったのでしょうか。

源頼朝が棟梁の源氏の家紋は笹竜胆です。この家紋のルーツは源氏が天皇の子孫だということを表しており、また日本最古の家紋としても知られています。

現在でも、神奈川県鎌倉市の市章は、笹竜胆で、市の花はリンドウです。

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しかし、それは後の時代に、頼朝が源氏の棟梁だから使ったのじゃないかと思う歌舞伎や能とかが広まっただけであって、頼朝個人が笹竜胆を使ったという確証なんてないのです。
そもそも、笹竜胆を家紋にしていたのは、源氏は源氏でも、公家の源氏でした。当時の様子を伝える『源平盛衰記』という資料でも、源氏は白旗を使っていて、対する平氏は赤旗を使っていたと言う具合に書かれています。武士が家紋を使い始めたのは、鎌倉時代のことですが、この頃にはもう頼朝の直系が途絶えた後でしょう。

余談になりますが、家に代々伝えられている家紋は、主に家の先祖がどの出自なのかを表しますが、徳川家康が自称源氏を名乗るように、家紋は状況に応じて変えられることができるのです。その家が始まってから、現在まで変わらずに使い続ける家もあれば、途中で事情によって変えた家もあるのです。

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源頼朝の死因は暗殺なのか?犯人は誰?


1198年の12月27日、源頼朝は落馬したことがきっかけで発病し、翌年の1月13日になくなりました。これは、頼朝の死因に関する通説ですが、鎌倉幕府の公式記録の『吾妻鏡』にはこの出来事がきちんと掲載されていないのです。
加えて、『吾妻鏡』には頼朝が亡くなる前の3年間の記載がなく、頼朝の死について触れたくない事情が当時あったのでは?という説があります。

頼朝の死因については現在でも研究者の間で議論が交わされ、『吾妻鏡』以外の資料では、頼朝自身は糖尿病でうまく身体が動かせず落馬した説や、落馬せず馬ごと川に落ちて溺死した説などまちまちです。中には、現代人の主な死因に数えられる脳卒中や脳溢血といった説がありますが、その中の1つに暗殺説と呼ばれるものがあります。

頼朝を暗殺したのは誰なのか?考えられる人物が二人います。

一人目は妻の北条政子の実家である北条氏。頼朝の死後の鎌倉幕府は北条氏が実権を握っており、また頼朝の長男の頼家も北条氏に暗殺されている事から、頼朝の死因は北条氏による暗殺なのではないか・・・という説は根強く残っています。
先述した『吾妻鏡』の著者は北条氏の関係者であると言われており、この資料に頼朝の死に関する記載が薄いのは、北条氏が自身にとって都合が悪いことを記載するのを避けたためとも言われています。

この他に考えられるのが、土御門通親(つちみかどみちちか)という反幕府派の朝廷の実力者です。当時の頼朝は、娘である大姫を後鳥羽天皇に嫁がせる事で朝廷を掌握する事を考えていたのですが、これが通親ら朝廷の鎌倉幕府に反発する勢力、そして頼朝に付き従っていた東国武士の力を強めた説が存在します。その結果、通親が鎌倉幕府の創立メンバーであった大江広元と手を組み、その結果広元が頼朝を暗殺した・・・と言う説もよく主張されています。

※参照:大江広元の人物像について解説。源頼朝や北条義時との関係は?

『小倉百人一首』の撰者である藤原定家が記した『明月記』という資料によると、頼朝死去の知らせを受けた通親は一切驚かず、その後ただちに反幕府派の公家を登用する人事を行ったと言われています。この点も、通親や朝廷が頼朝暗殺の黒幕であるという説の根拠となっています。

この記事のまとめ


このページでは源頼朝の性格や家紋、その死因についてご紹介しました。

源頼朝は、初めて武士の武士による武士のための幕府を作ったことで、足利尊氏や徳川家康など、その後の多くの武士から尊敬されています。

頼朝が開いた鎌倉幕府は、平氏が築いた武士の時代においては次の時代ですが、多くの武士たちが手本にしたいと思う人物が頼朝なのも頷けます。頼朝は源氏の棟梁として、関東の武士たちからは慕われたそうですが、兄弟仲と家庭事情は良いとは言えない面は1つの欠点として言わざるを得ないでしょうね。

なお、以下の記事では頼朝が築いた鎌倉幕府について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:鎌倉幕府の年表や役職を解説。場所やその跡地にも迫る!