鎌倉幕府の初代執権として活躍した北条時政ですが、その生い立ちはよく分かっていません。
父親が誰なのかも定かではなく、資料によって記載もまちまちです。

出身地である伊豆や田方郡との関わりにも触れながら、北条時政のルーツについてご紹介します。

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北条時政の生い立ちは謎に包まれている…?


鎌倉幕府の初代執権である北条時政。
その生い立ちについては、詳細は明らかになっていないです。

時政は1138年、伊豆国で勢力を持つ在地豪族の子として生まれます。
父については諸説ありますが、確定的な事実は未だ分かっていません。

そもそも、鎌倉幕府の執権職を代々受け継ぐ家柄として、北条氏が歴史に明確に登場したのは北条時政からです。
それ以前の北条氏は、伊豆国田方郡北条(現在の(静岡県伊豆の国市))で勢力を有していた地方の豪族という事が分かっているだけで、後述するように時政の父は誰なのか諸説ある事からもわかるように、北条氏の系譜が明確にわかるほどの名声を得るのはあくまで北条時政の時代になってからなのです。

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時政の父親は果たして誰なのか?


北条時政の父親ですが、諸説あり定かではありません。
以下はWikipediaに掲載されている時政の系図ですが、13通りの系図があるのですから驚くばかりですね笑

※引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/北条時政


北条時方、時兼(時包?)、時家の3人の誰かなのかは確かなようですが…

このうち、3人目の時家は『源平闘諍録』という資料の中で「北条介の婿」と紹介されており、北条氏の足跡を伝える最初の人物であると言われています。
時家を時政の祖父と位置付ける資料も存在します。

父親が謎に包まれてる時政ですが、兄弟の有無についてもよく分かっていません。
ただ時政の同世代の北条氏には北条時定という人物がおり、この時定は時政の弟とする説があります。
一方で時定を時政の従弟や甥とする資料や、北条氏の嫡流は時定の系統で時政は傍系だった見解もあります。
時政以前の北条氏は謎に包まれていると言わざるを得ないでしょう。

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北条時定と出身地・伊豆の関わりについて


最後に、北条時政と出身地である伊豆との関わりについて改めて見ていきましょう。

北条氏はもともと伊豆国の田方郡(たがたぐん)という場所を拠点にしていた豪族でした。

今の静岡県の東側に位置する地域ですね。

※引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/田方郡


『吾妻鏡』によると、田方郡には「北条」という地域の他、「南条」「上条」「中条」という場所があったそうです。時政のご先祖様は、こうした地域を元に「北条」と名乗ったのかもしれませんね。

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伊豆の一豪族に過ぎなかった時政ですが、その人生は源頼朝との出会いによって大きく変わります。
当時、頼朝は平治の乱で敗北し伊豆に流刑になった身。平家に近かった事もあり、時政は頼朝の監視役を担っていました。

しかし、時政の娘である北条政子が頼朝と恋仲になり結婚を決意します。
平家の権勢を恐れる時政は頼朝と政子の結婚を反対します。しかし、政子の強い意志に負けた時政はこの結婚を認めてしまいます。
※参照:北条政子ってどんな人?年表や承久の乱を小学生向けに解説!

そして1180年。以仁王の令旨が頼朝の下にもたらされるや、時政も頼朝と共に挙兵。
その頼朝の配下として、鎌倉幕府の初代執権として幕府創業の基礎固めに尽力します。

鎌倉幕府の創業に貢献した時政でしたが、最終的には自らも鎌倉を去り、伊豆で最後を迎える事になります。
1205年、時政は後妻である牧の方の縁戚である平賀朝雅を将軍にすべく動きますが、その動きを政子と息子の北条義時に止められて、その結果、伊豆に追放されてしまいます。
その後、時政は歴史の表舞台に登場することなく、1215年に78歳でこの世を去りました。

※参照:北条義時ってどんな人?年表や執権政治を中学生向けに解説!

まとめ


北条時政の生い立ちやその父親、出身地である伊豆との関わりについてご紹介しました。
時政以前の北条氏の動向は、実はあまりよく分かっていません。
鎌倉時代に活躍する北条氏の人々は、その全てが時政の系統に繋がるのですから驚きですよね。

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でもメインの登場人物として登場する時政。
注目が高まることで、時政のその生い立ちに関する研究が進むかもしれませんね。