2021年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝の妻北条政子が出てきますね。
歴史上で有名な女性は、北条政子の他にも、室町幕府8代将軍足利義政の妻である日野富子、豊臣秀吉の側室となった淀殿が挙げられます。
上記の3人は「強い女性」というイメージがありますよね。
しかし「日本三大悪女」と言われることもあるのもしばしば。
そこで今回は「3人がどんな人だったのか、詳しい性格」について解説します。
目次
北条政子の性格・人となりとは?
まずは北条政子。源頼朝の妻として有名な人物ですね。
北条政子の中で一番有名なのは、承久の乱が起こった時の彼女の言葉でしょう。
政子は後鳥羽上皇の挙兵で動揺する家臣たちに対し、以下のように説きます。
「私の最後の言葉として聞いてほしい。上皇は兵を率いて幕府を滅ぼそうとしている。今こそまとまって上皇から幕府を守ろうではないか。それが、亡き頼朝公から受けた恩を返すことにつながるのではなかろうか。」
幕府の家臣たちはこの政子の言葉に感激し、一致団結をします。結果、見事に鎌倉幕府は上皇方に勝利しました。
まさに「強い女性」を体現したのが北条政子です。
※参照:承久の乱を中学生向けに解説。場所やその後の意義は?
ただこの北条政子、悪女とも呼ばれています。
なぜ悪女と呼ばれるのか。
政子のエピソードをいくつか見てみましょう。
頼朝の不倫相手を襲う
政子は、頼朝が伊豆国に流されたときに出会い、当時では珍しい恋愛結婚をしました。その後、2人の間には子供ができます。
しかし頼朝は政子が妊娠中にもかかわらず、外で亀の前という女性を寵愛するようになりました。
それに怒った政子は、頼朝の不倫相手をかくまっていた人の屋敷を襲撃させます。
亀の前は何とか逃げ延びましたが、夫の不倫相手を襲撃するなんて怖すぎです・・・
政子はとても嫉妬深かったため、一夫多妻制の時代にも関わらず、頼朝は他の女性との間に子供を作ることができませんでした。
2代将軍頼家への対応
次に鎌倉幕府2代将軍、源頼家への対応です。頼家は政子と頼朝の間の長男で、頼朝が亡くなった後、18歳で2代将軍になりました。
ただ将軍とは言え、まだ若い頼家を完全には信じていない政子は、「13人の合議制」という制度を作ります。
この「13人の合議制」は簡単に言うと、「将軍だけでなく、優秀な13人で政治をやっていこう」というものです。
しかし頼家は、この13人の合議制が面白くありません。せっかく将軍になったのに何で家臣たちの言うことに左右されなきゃいけないんだ!ということですね。
そこで頼家は政子が決めた13人の合議制に反発するようになります。
具体的には自身が信頼する5人しか自分に会ってはならないと決め、女遊びを始めるのです。
この息子の荒れ具合に怒った政子は、頼家に対し「修善寺への幽閉」を命じます。
結果、頼家は政子の弟で2代目の執権となった北条義時の手の者によって殺されてしまいます。
※参照:北条義時ってどんな人?年表や執権政治を中学生向けに解説!
頼家の跡を継いだ3代将軍・実朝も頼朝の子供によって殺されてしまい、政子が嫁いだ源氏の血筋は絶えてしまいました。
これに取って代わったのが、政子の実家である北条氏です。
嫁ぎ先が滅ぶ一方、実家が勢い付くきっかけを結果として作ってしまった事も、政子が「悪女」と言われる理由なのでしょう。
北条政子の性格や「悪女」と呼ばれた理由まとめ
・夫である頼朝の不倫相手を襲撃する。・自分の息子である2代将軍頼家から力を取り上げ、幽閉させる。
・嫁ぎ先の血筋が絶え、実家が勢い付くきっかけを結果として作ってしまう。
※参照:北条政子ってどんな人?年表や承久の乱を小学生向けに解説!
日野富子の性格とは?
次に日野富子です。日野富子は室町幕府8代将軍、足利義政の妻です。大河ドラマ「花の乱」では主人公として描かれるなど、とても有名な女性ですね。
しかしこの日野富子も悪女と呼ばれることがあります。
その理由をいくつかのエピソードを交えて解説していきますね。
※参照:足利義政ってどんな人?年表や応仁の乱を小学生向けに解説!
義政の側室と乳母を流刑に
将軍の奥方たるもの、必ず跡継ぎを生みたいもの。富子もその思いは同じでした。義政と富子の間にも、待望の男の子(第一子)が生まれます。
しかしその子はすぐに亡くなってしまいます。
待望の跡継ぎを失った富子は、失意のどん底。
普通の人であれば、落ち込んだまま元気を無くしていくものですが、この富子は違いました。
「息子が死んだのは乳母が呪いをかけたせいだ。遠くへ追放すべきである」と無茶苦茶なことを言い出し、夫・義政の乳母にあたる今参局(いままいりのつぼね)を追放してしまいます。
さらに今参局だけでなく、義政の側室4人もまとめて追放してしまいます。嫉妬深さといい、怨念といい、とても恐ろしいですね。
ちなみにこの乳母、今参局は配流先に行く途中で自殺してしまいます。
応仁の乱勃発の一因となる
富子は第一子が亡くなった後、なかなか男の子に恵まれませんでした。そのため1464年、義政の弟で仏門に入っていた義視が義政の跡継ぎになります。
しかしその1年後、富子に男の子ができました。
この子供は、後に9代将軍になる足利義尚です。
男子を生んだ富子は何としても、実の子義尚を室町幕府の将軍にしたいと考えます。
そのための策として、有力守護大名の山名宗全に義尚のサポートを頼みました。
逆に義視の後ろには守護大名、細川勝元がついていました。
この山名宗全と細川勝元の争いに、有力守護大名の斯波家や畠山家の家督争いが絡んで発生したのが「応仁の乱」です。
応仁の乱が勃発した原因の全てを、わが子を将軍にしたい富子の願望に結びつけるのは無理があるでしょう。とは言え、この内乱の一因に富子の存在があるのは否定できません。
応仁の乱で莫大な富を得る
しかし日野富子の悪行は、応仁の乱を引き起こすだけにとどまりません。なんと日野富子、山名宗全の味方をしておきながら、細川軍にも物を売っていたのです!
たくさん物を売ると、当然莫大な富を得ることができます。
それはこの時代も変わりません。
「自分の息子を将軍にしたい」という思いから、応仁の乱を引き起こし、京都を焼け野原にしておきながら、敵・味方に物を売り財産を築く。
一説にはこの時稼いだ金額は、現在で60億円にも上ると言われています。
※参照:細川勝元ってどんな人物?山名宗全との関係や子孫の有無は?
明応の政変により足利義材を追放する
その後も富子はやりたい放題。1489年に義尚が25歳の若さで亡くなると、富子は管領の細川政元(細川勝元の子ども)と協力し、義視の子どもである義材(よしき)を10代将軍につけます。
この足利義材、富子の妹である日野良子の子供であり、富子にとっては甥にあたる人物です。
しかし義材も将軍になると、富子や細川政元に反抗的な態度を取るようになります。
その態度が気に入らない富子は政元と協力し、義材が外へ合戦に出かけたときに、クーデターを起こしてしまいます。
1493年に起こったこの出来事は「明応の政変」と呼ばれています。
この明応の政変によって、富子は夫・義政の甥にあたる足利義澄を11代将軍につけることに成功しますが。その3年後に57歳でなくなります。
明応の政変以降、室町幕府は義材と義澄に分かれ再び内戦状態に。
近年ではこの事件が「戦国時代のはじまり」と言われる事も増えています。
日野富子の性格や「悪女」と呼ばれた理由まとめ
2度の政変を起こし、室町幕府・京都に多大な損害を与えておきながら、自身は物を売り大金を稼ぐ。
これが富子が悪女と呼ばれる理由です。
1、息子が死んだ罪を無理やり乳母にかぶせ、流刑にする。
2、息子を将軍に就けたいがために、応仁の乱を勃発させる。
3、応仁の乱では、敵味方関係なく物を売り、莫大な富を得る。
4、明応の政変を引き起こし、幕府を混乱に陥れる。
※参照:日野富子ってどんな人物?足利義政との仲や子供について!
淀殿の性格とは?
豊臣秀吉の妻として、その後継者である淀殿。「徳川家によって滅ぼされたかわいそうな女性」と言われる事もありますが、一方で「悪女」と呼ばれる事もあります。
その背景について、淀殿の性格も交えながら見ていきましょう。
徳川家の印象操作によって「悪女」になってしまった?
淀殿が「悪女」と呼ばれる理由は、徳川家にあるのではないか?と言われています。というのも、徳川家の立場としては「豊臣家が滅びた原因は淀殿にある!」という感じに印象付けたかったんですね。
淀殿を「豊臣家を滅ぼした原因を作った悪女」とする要因としては、真偽は別として以下のものが挙げられます。
・秀吉の正室である北政所(おね)と対立し、家臣団の分断を招いた。
(近年では逆に、この二人は所々で連携していたと言われています。)
・関ヶ原の戦いを起こした石田三成や、側近の大野治長と密通していた、
(実子がいなかった秀吉に、急に子どもが出来るのはおかしい!という考え方から、こうした噂が生まれたようです。)
・大坂の陣勃発前に、家老の片桐且元を大坂城から退去させた。
(且元は淀殿の側近である大野治房らと対立しており、淀殿にも責任の一端はあると思われます。)
・大坂冬の陣で徳川方が大坂城へ砲撃を行った際、怖気付いて徳川方との和睦を指示した。
(当時の豊臣方は弾薬や兵糧が不足していた事情もあり、淀殿だけの責任という訳ではないでしょう。)
こうした噂は「淀殿=悪女」という前提で作られており、客観的な検証が行われているとは言い難いと言えます。
ただ歴史は勝者が有利に描かれるものであり、こうした噂が生まれるのは仕方がない面もあるのかもしれません。
※参照:大野治長ってどんな武将?大坂の陣での動向や茶々との関係!
プライドの高さと精神の脆さの二面性
淀殿の人生を紐解いていくと、プライドの高さと精神の脆さの二面性を所々に感じます。1611年、徳川家康は豊臣秀頼に対して、二条城への上洛を求めました。
この知らせを受けた淀殿は激怒。秀頼の上洛を断固拒否する姿勢を示し、「そんなことを命令されるのなら、秀頼を殺し私も死ぬ」とまで宣言したようです。
戦国大名の娘として生を受け、天下人・秀吉に寵愛された人物ですから、自身の家柄や社会的地位にプライドを持っていたとしても不自然ではありません。
もっともこの時は、秀吉の股肱の臣である加藤清正や浅野幸長に説得され、息子と家康の対面をしぶしぶ承認しています。
一方、淀殿の人生を見ていくと精神的な脆さを感じさせるエピソードも目立ちます。
『玄朔道三配剤録』という資料によると、1601年、淀殿は「気鬱」を患い、医師の曲直瀬玄朔(まなせ げんさく)から薬を処方されたと言われています。
この時期は関ヶ原の戦いの後で豊臣家の支配地域が減らされていた時期であり、精神的に不安になったのかもしれません。
また、淀殿は大坂冬の陣では自ら武装し、侍女を引き連れて城内を鼓舞して回ったと言われています。しかし徳川方に大砲を打ち込まれると講話に傾くなど、心の軸が固まっていない印象を受けてしまいます。
淀殿の性格や「悪女」と呼ばれた理由まとめ
・淀殿が悪女と呼ばれるのは、徳川家による印象操作の面も大きい。・プライドの高さから、一時期は息子・秀頼の上洛を拒絶している。
・「気鬱」によって薬を処方される等、精神的な脆さを感じさせる逸話も存在。
※参照:淀殿の性格や悪女と呼ばれた理由とは?淀君の意味も解説!
この記事のまとめ
「日本三大悪女」というテーマで、北条政子、日野富子、淀殿の性格について解説しました。
この3人、いずれも武士のトップとなった男性(源頼朝、足利義政、豊臣秀吉)の妻として子供も産んでますが、その子供の多くが早世、もしくは母親より先になくなっています。
(日野富子の娘で出家した光山聖俊という女性のみが、唯一母親より長生きしています。)
こうした視点からこの3人の人生を振り返るのも、また味わいがある気もしますね。