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戦国時代、九州でその名を馳せていたのが薩摩藩・島津氏。
その当主・島津義久の弟で鬼島津と呼ばれ恐れられていた島津義弘

そんな義弘を語るに欠かせないのが、関ヶ原の合戦で見せた決死の突破劇です。

また、最期まで義弘を守り抜いた甥の島津豊久や、かつて因縁があった立花宗茂との逸話にも触れながら、関ヶ原の戦いにおける島津義弘の動向について見ていきましょう!
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島津義弘と関ヶ原の戦い。決死の敵中突破「島津の退き口」とは?


猛将、島津義弘は関ヶ原の戦いでもその武勇を発揮しているのですが、当時の義弘の立場は非常に不安定な立場でした。なぜなら、豊臣家に近い存在であった義弘に対し、兄の義久は豊臣家の事をあまり良く思っておらず、関ヶ原の戦いでの協力も一切無しという状態。
その上、当時の義弘には本国の島津軍を動かす権限はありませんでした。

また、義弘は関ヶ原の戦いで、東軍と西軍どちらにつくかもハッキリとしていない状態でした。義弘は本来であれば東軍につきたかったようで、家康からの援軍要請にも、わずかな兵ではあったものの応じています。

すでに66歳の老将であった義弘は、そのわずかな兵を引き連れ島津軍の命運を懸け伏見城に籠城していた家康の家臣・鳥居元忠の元に参上します。
しかし肝心の元忠は「援軍など聞いていない!」と、義弘の入城を拒否してしまうのです。

「このままでは敵陣の中孤立してしまう…」このように判断した義弘は、家康側の東軍から石田三成率いる豊臣側の西軍へと寝返ります。しかし、当の西軍も、大大名であるはずの島津軍がわずか1500の兵しかいないことに驚いて、義弘は軽視されてしまうのです。本戦前の軍議でも、義弘の意見に耳を貸す者はいませんでした。

こうした待遇に嫌気が差した義弘は、合戦が始まっても兵を動かす事なく、どっちつかずの状態で戦況を見つめるだけに留まりました。
しかし小早川秀秋の裏切りにより、一気に西軍が総崩れし敗走を始めると状況は一変。退路を遮断された島津軍は四方八方を敵軍に囲まれてしまうのです。

この絶体絶命のピンチに義弘は敵陣の真っ只中を正面から突破するという強行に出るのです。
これがかの有名な「島津の退き口」です。

島津軍は義弘を守るために何人かが留まり追撃する敵と戦い、全滅するとまた次の数人が留まり戦いその隙に君主を逃がすというまさに命懸けの戦法をとります。

この壮絶な戦いによって義弘は奇跡の敵陣中央突破を果たし、生きて薩摩に帰還しました。

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義弘の甥、島津豊久の関ヶ原の戦いにおける奮戦について!


この敵中突破において、島津製の先頭に立って義弘を守り抜いたのが、義弘の甥・島津豊久です。

島津豊久の父親、島津家久は、義弘にとっては弟にあたる人物です。秀吉の九州征伐後に家久は若くして亡くなっており、そのため豊久は、伯父の義弘に実子同然に養育されていました。そのため、豊久は義弘に常に恩義を感じていたと言われています。
こうした恩に報いるため、関ヶ原の戦いで本国からの援軍を望めない義弘の元に、豊久は真っ先に着陣したと言われています。

そして島津の退き口では「一国の存亡がかかっているのであるから義弘公は何としてでも薩摩に帰られよ、某が戦死してでも足止め致します」と残して殿を務め、追撃してくる東軍を迎え撃ち続けました。

その時も豊久は「我こそが島津惟新(義弘の別称)なり」と高らかに声を上げ敵軍に挑んだと言われています。奮闘するも、追撃してきた東軍の兵に囲まれ、四方八方から槍で突き上げられてしまう事に。その時、義弘の身代わりとして甲冑の下に着ていた義弘の猩々緋の陣羽織は、散り散りに裂けたのだとか。瀕死の重傷を負うも何とか生き延びた豊久でしたが、このままでは義弘の足手まといになってしまうと感じ、自刃したと伝えられています。

伯父である義弘を豊久がどれほど心から慕い、敬っていたかがよく分かる逸話ですよね…

甥や家臣たちが命を懸けて自分を守り、戦い、そして散っていく気配を背中で感じながら、それでも生き延びなければいけなかった義弘。
そのの無念さは、今の私たちには計り知れないものがあると言ってもいいでしょう。

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関ヶ原の戦いで絶体絶命の島津義弘を助けたのは…?


命からがら生き延びた義弘でしたが、腹心の家臣たちを失い残った島津軍はわずか数十名。
これ以上の追手が来た場合、戦えないほどにぼろぼろの島津軍に温情を見せたのが、かつて因縁のあったはずの立花宗茂でした。

彼は父親、高橋紹運を、島津家との戦いで亡くしているのです。


義弘と同様、西軍について国許に変える途中の立花宗茂は、人質になっていた自らの生母を大坂城から奪還しているのですが、その際、同じく人質であった義弘の妻や島津家の人質たちも救出しているのです!宗茂はその時、「因縁のあるのは確かだが、主を亡くした悲しみはいくらばかりか計り知れない。せめてお国元に帰して差し上げたい」と申し出たと言われています。

その後、義弘の健在を知った宗茂は、生きていたのならここぞ義弘の首を獲る絶好のチャンスとはやし立てる家臣たちに「わずかな兵で敗走する、ましてや鬼島津を討つなど同じ武将としてすべきことではない」として助けの手を差し伸べました。共に関ヶ原の合戦にて戦った者として、武勇名高い因縁深かったはずの両雄は互いの無事を落涙して喜んだと言われています。

当時の苦難のほどがうかがえますね…
その後も義弘はこの時の感謝の念を忘れず、親交は後も続いていったと言われています。

※参照:立花宗茂の関ヶ原の戦いでの動向は?弟や子孫についても解説

今回のまとめ


このページでは、関ヶ原の戦いにおける島津義弘の動向を、甥の島津豊久やかつて因縁があった立花宗茂とのエピソードを挟みつつご紹介しました。

かの有名な「島津の退き口」で、その鬼気迫る果敢さを発揮した島津義弘。その果敢さは、勝利したはずの敵・徳川家康や猛将・福島正則などをも恐れさせ、武将としての敬意さえ抱かせたと言われています。

しかしその一方で、自分を慕ってくれた甥や腹心の家臣たちが命を落としてしまいます。そんな家臣たちの命懸けの戦いによって、命からがら生き延びることができたボロボロの義弘を助けたのは、かつて因縁のあったはずの立花宗茂でした。この2人のエピソードなども、いずれは大河ドラマなどで見てみたいですよね。

なお、以下の記事では戦国時代から幕末にかけての島津家の家系図を解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:島津家の家系図を簡単に解説。薩摩藩の歴代藩主は?