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四国を平定した土佐国の戦国大名・長宗我部元親
類稀なる軍才を発揮し、土佐の一領主から四国統一を目指した武将です。

家臣や民に慕われ、人情味溢れる人柄であったとも言われている元親。
今回は、そんな長宗我部元親の真の人物像に改めて迫ってみたいと思います!

また、元親の妻や、その子孫の有無についても見ていきましょう。
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長宗我部元親の人物像について解説!


まずは長宗我部元親の人物像についてご紹介します。

元親は子供の頃、読書や学問を学ぶことが好きで部屋に籠ってばっかりだったと言われています。同年代の子に比べると色白な上に長身でひょろっとしていたので、「姫若子(ひめわこ)」と言うあだ名で呼ばれていました。姫のような若君という意味で、父親の家臣たちからも笑い者にされていたのだとか…

そんな元親ですが、22歳の時少し遅めの初陣に出ます。その長浜の戦いで見せた元親の勇姿はもはや姫若子ではありませんでした。なんと、圧倒的に数で劣っていた劣勢の中で一人槍を持って、果敢に敵陣に攻め込んで行ったのです!

実は、元親が幼少の頃好んで読んでいたのは兵法や戦法といった、戦でいかに状況に応じた戦い方ができるかといった書物だったのです。姫若子と陰で笑われながらも、実は実践に備えて着々と自分なりの戦い方を習得していたんですね。元親の軍才は、このような幼少期があってこそだったのかもしれません。

初陣となったこの戦いで「怯むな!武士なら命惜しまず、名を惜しめ!敵前でひくでない!」と激励した元親に家臣たちは大層感激して、長宗我部家の後継者として認められるようになります。また、自前の農地を持つ農民に従軍の義務を課し、将校の身分を与えるという制度を作ったりもしてます。農民にもきちんとした敬意を示すその人柄から、土佐の民にも信頼が厚かったことが理解できますね。

その後四国統一を目指し、次々とそれを阻む敵を滅ぼしてついには土佐を統一します。
しかし、勢力をつけつつあった元親に難色を見せたのが織田信長や豊臣秀吉。
信長の死後は秀吉と対抗することになり、四国完全統一目前で秀吉に降伏しました。

しかし九州討伐の際、薩摩の島津勢との乱戦で嫡男・信親が討死してしまいます。この出来事を気に、元親は人が変わったようになります。家督問題で意見した家臣に切腹を命じるなど、家臣や民に慕われたかつての面影は見る影もなくなったと言われています。

その後、朝鮮出兵や土佐の支配書ともとれる「長宗我部元親百個条」を制定するなど、当主としての務めは果たしますが、秀吉の死によって上方の情勢が不安定になる中、遺言を残すこともなく61歳で病死しました。

仁義に重んじる人柄だった分苦労や心労も絶えなかったことが想像できます。
絶対なる信頼をおいていた嫡男の死が、更に元親の心を歪めてしまったのかもしれませんね…

長宗我部元親の妻について解説。2人が結婚した理由は?


長宗我部元親の妻が、どのような人だったのかご存知ですか?

元親の正室は、美濃国の武将・石谷光政(いしがい みつまさ)の次女とされています。名前は伝わっていませんが、明智光秀の重臣、斎藤利三の異父妹に当たる女性だったそうです。この縁から、元親は光秀や織田信長と関係を持つようになり、長男の信親の烏帽子親を信長に依頼した事もありました。

では、なぜ元親は遠い美濃国から妻を迎えたのでしょうか。家臣の中には、同じ四国地方の有力者の娘をという声も多かったそうですが、元親によると、妻の実家の家系は武勇に長けており、その血脈にあやかりたいという事だったそうです。また、中央の勢力と接点を持ちたい元親の思惑があった結婚だとも言われています。

1563年に2人は結婚。1583年に妻が亡くなるまで、2人の間には4男4女が産まれている事や、側室を1人しか持たなかった事から、元親と妻の夫婦仲は良かったのだと思われます。

その側室の名前は小少将(しょうしょうしょう)という女性で、かつては阿波国の守護、細川持隆の妻でした。しかし夫が三好家に滅ぼされると、その張本人である三好義賢の妻になり、さらにその死後には重臣の篠原自遁の妻になった女性です。元親の妻になったのは1582年頃と思われ、翌年には元親の5男にあたる右近大夫を出産しています。小少将は美人だったと言われ、その美貌で四国の武将たちを虜にしたと伝わっています。

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長宗我部元親の子孫は現存している?


長宗我部元親の死後、長宗我部家は関ヶ原の戦いで改易されてしまい、15年後の大坂の陣で跡を継いだ盛親およびその子供たちは全て処刑されてしまいます。この段階で長宗我部家は事実上滅亡してしまいますが、元親の子孫は残っているのでしょうか。

実は、元親の三女である阿古姫が伊達家に保護されてその息子が仙台藩の家臣として仕えます。その後もこの縁を頼りに長宗我部の血縁者が仙台藩に召し抱えられたと伝わっています。

また晩年元親が残したと言われる末子・長宗我部康豊も徳川家の重臣酒井家に仕え、足立と改名したことも分かっています。元親は甥や親族を他方に養子に出していたため傍系の一族は生き延び、その後長宗我部姓に復したと言われています。2014年の社会人野球では、元親の末裔とされる長曽我部竜也内野手が活躍し、一躍有名になりました。

ちなみに、現在の長宗我部家の当主は長宗我部友親氏です。友親氏は元親の弟、島親益の系統にあたる方で、2010年には山内家の当主の方と共に高知県知事へ表敬訪問をした事で話題になった他、長宗我部氏に関する著書やサイトなどを発表されています。このように、長宗我部元親の子孫、および長宗我部家の血を引く方々は、日本全国に散らばっていると言えそうですね。

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この記事のまとめ


長宗我部元親の人物像について、妻や子孫の存在にも触れながらご紹介しました。

姫若子と馬鹿にされながらも軍才を発揮して実力を認められていった元親は、武勇に長けた美濃斎藤家から妻を娶り、天下人と対峙する程の武将に成り上がっていきます。元親はその度量の良さや仁義に厚い人柄から家臣や民に慕われる頼りがいのある武将であったとも言われています。

しかし、その反動か嫡男の死で精神を狂わせ、失意のままこの世を去った脆い一面も持っていたようですね。長曽我部家は一度事実上の滅亡をしますが、他方に渡っていた元親の子孫が長宗我部姓に復帰して現在の17代当主・長宗我部友親氏に続いています。