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関ヶ原の戦いで領地を没収された大名の中で、かつての領地をそのまま復活してもらった武将をご存知ですか?このページで解説する立花宗茂という武将です。

ここでは関ヶ原での戦いにおける立花宗茂の動向や、その子孫の有無について辿ってみました。

また、宗茂の弟である立花直次という武将についてもご紹介します!
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本戦には間に合わなかった・・・関ヶ原の戦いにおける立花宗茂の動向


関ヶ原の戦いの際、立花宗茂はどのような動きをしていたのでしょう?

戦いの前、宗茂は徳川家康から東軍に付くよう勧誘されますが、宗茂は秀吉の家臣として「君主への恩義を忘れて豊臣家に背くことはできない」とこれを拒否して、西軍として関ヶ原の戦いに参戦します。この時、一部の家臣から東軍に付くように説得されますが、「勝ち負けにはこだわってない」と述べ、自らの信義を優先したというエピソードが残されています。とてもカッコいいですよね。

その後、宗茂は毛利家の一族と共に、西軍から東軍へと寝返った京極高次が籠城していた大津城を攻め落とす戦を展開します。宗茂ら1万5千に対して京極勢は僅か3000でしたが、城側はかなり持ちこたえました。しかし立花勢の奮闘、そして天守閣に大筒を打ち込んだ結果、無事に開城まで漕ぎつけたのですが、その日は9月15日。つまり関ヶ原の戦いで東軍が勝利した日だったのです。

大津城の攻略後、宗茂は手勢を率いて草津まで進みますがこの地で西軍の敗北を知ります。そのため大坂城に引き上げ、総大将の毛利輝元へまだ戦えると抗議しますが受け入れてはもらえず、自分の領地である柳川へ引き返す事にしました。この時、同じ西軍のメンバーであり、かつての敵であった島津義弘と親交を深めたエピソードが知られています。

※参照:島津義弘と関ヶ原の戦い。甥の豊久や立花宗茂との逸話とは?


帰国後、立花勢は鍋島直茂、黒田如水、加藤清正といったビッグネームと戦う事になりますが、最終的には居城を明け渡します。領地は家康に没収され、宗茂は僅かな家臣と共に浪人に。ただもともと東軍へとスカウトされるほどの武将ですので、徳川家からの評判が下がることはなく本多忠勝の計らいで徳川幕府に仕えることとなります。

その後、1604年には陸奥棚倉に1万石の大名として復帰。その後も大坂の陣に参陣する事を通して幕府の信頼を獲得していき、1620年には旧領・柳河を返してもらう事が出来たのです。

立花宗茂の子孫はいるのか?


それでは、その後の宗茂はどうなったのでしょう?
子孫の有無やその後の立花家についても気になりますね。

宗茂はその後も幕府の家臣として活躍し、将軍秀忠、家光の側近としてその話し相手になったとされます。また1637年の島原の乱にも参戦、その勇姿が健在であることを周りに知らしめました。しかし、宗茂は生涯を通じて子供には恵まれなかったため、彼の直系の子孫はいないのです。

宗茂の跡を継いだのは、養子となった実弟・立花直次の四男である立花忠茂です。その後の立花家の当主は、宗茂の「茂」の字ではなく、宗茂の養父である立花道雪以前の立花家の当主が用いていた「鑑(あき)」の字が名前にある事が多い傾向にあります。

また、忠茂の孫で、四代藩主の立花鑑任が造営した別邸・集景亭は、現在も料亭旅館「御花」として現存しています。最後の藩主となった十二代立花鑑寛は、戊辰戦争での軍功を称えられ5千石を与えられました。その後も柳河藩は明治までその名を残して、廃藩置県により柳川藩から柳河県になった後、三潴県を経て福岡県へと編入されます。それに伴い立花家も華族となりのちに伯爵となりました。

現在の立花家の当主の方は17代目にあたる立花宗鑑氏で、立花家に関する資料などの保護や調査を行う「立花財団」という公益財団法人の理事長を務められています。また、その長男の宗和氏は日本航空の機長を努める傍ら、母校である慶応高校のテニス部の監督もされているそうです。

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宗茂の弟、立花直次(高橋統増)ってどんな人?


最後に、立花宗茂の弟、立花直次についてもご紹介します。

立花直次は宗茂の5歳下の弟で、高橋統増(むねます)という名前でも知られています。父親の高橋紹運が宗茂を立花道雪の養子にしたので、次男にあたる立花直次が一時期、高橋家を継承していました。彼が立花へ姓を改めるのは1614年に旗本になった時期で、この時立花へ改姓してはどうかと家康の側近、本多正信に奨められたのがキッカケだと言われています。

直次は兄と同様、武勇に優れた武将であり、朝鮮出兵の際は敵に囲まれた宗茂を救い出した事がある程です。関ヶ原の戦いでは兄と共に西軍につき改易されますが、同じくその後で徳川幕府に仕えています。大坂の陣でも手柄を立てており、1617年に死去した後、その跡を継いだ嫡男の種次が加増を受け、筑後国(現在の福岡県)に三池藩を創設する事を許されています。

三池藩は一時期、領地を没収されるものの1868年に復帰する事を許され、また最後の藩主である立花種恭(たねゆき)は子爵、貴族院議員となりました。また、6代藩主、種周(たねちか)の末裔には、92代目の総理大臣になった麻生太郎氏の名前も挙げられます。

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この記事のまとめ


このページでは立花宗茂の関ヶ原の戦いにおける動向やその子孫の有無、そして弟の立花直次についてご紹介しました。

戦国最強の武将としてしばしば名前が挙がる立花宗茂。彼がもし関ヶ原の本戦に間に合っていたならば、戦局は大きく変わっていたかもしれません。豊臣秀吉に「東に本多忠勝、西に立花宗茂あり」と言わしめるほどの武名は、弟の直次の家系と同様、今に至るまで続いています。

妻の立花誾千代の存在や主君への忠義など、エピソードには事欠かない立花宗茂。そんな彼を大河ドラマで見てみたいと思うのは、きっと私だけではない筈です。