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徳川四天王の1人として、家康の天下統一を支えた井伊直政
大河ドラマ「おんな城主直虎」でも主要人物の1人となっているだけあって、その知名度はより高まってきそうです。

そんな井伊直政ですが、その人物像はどういったものだったのでしょうか。
また直政の家臣や活用した家紋についても気になりますね。

このページでは、井伊直政の人物像やその家臣団、用いた家紋についてご紹介します。
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井伊直政の人物像とは?自他共に厳しいけど妻には…?


まずは井伊直政の人物像について、わかりやすくご紹介します。

1575年に家康に仕えた直政ですが、当時の記録には「容顔美麗にして、心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」とあります。つまり美男子、イケメンだったという事ですね。
直政は1582年、22歳で元服しているのですが、これは当時の基準からするとかなり遅い年齢だと言えます。一説には、直政は家康の「寵童」であり、彼を手放したくない家康の寵愛があったのだとか…

武将としての直政の人物像は口数が少なく、自分に対して厳しい性格だったと言われています。そしてこの厳しさは家臣に対しても向けられました。そのため少なくない数の家臣が本多忠勝のもとに走ったり、中には出奔する者まで現れる始末。また、家臣の失敗を許さず、時には手打ちにする事もあったのだとか。このため直政は当時自称していた官職「兵部少輔」から「人斬り兵部」と呼ばれるほどでした。

家康が豊臣秀吉に従った際の前後にも、直政の人物像が見て取れるエピソードがあります。秀吉からも高く評価されていた直政は、徳川への人質として預けられていた秀吉の母・大政所を秀吉のもとへ還す際に警護として付き従っています。この警護は彼女たっての希望と言います。容姿端麗に加えて大政所へのもてなしも心得たものであった直政を大変気に入っていたようです。

その後、大政所を手厚く保護し、無事送り届けた直政に秀吉は大変喜び、自ら茶を立てて労うこととしました。この席には1585年に家康のもとを出奔し、秀吉に臣従した石川数正が同席していたのです。直政はこれに我慢がなりませんでした。「先祖代々仕えた主君を裏切って関白殿下に仕えた者と同席する事はお断りする」と怒鳴ったと言います。秀吉を前にしてのこの言い様、直政の家康に対する忠義がよくわかるエピソードですね。

そんな直政ですが、正室の花(唐梅院、家康の養女)には頭が上がらない恐妻家だったそうです。直政には側室との間に産まれた子供(後の井伊直孝)がいたのですが、花に気を遣ったため、直孝に会ったのは死の前年だと言われています。あなたの周りにもいるであろう自他共に厳しい勇ましい人、実はプライベートでは奥さんや恋人に頭が上がらない…なんて事もあるかもしれませんね(笑)

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井伊直政の家臣にはどんな武将がいたのか?


家臣に対して非常に厳しかった井伊直政ですが、一体どのような武将がいたのでしょう?

井伊直政の家臣については、徳川家康が自らを支える軍団の育成を直政に期待して直接介入をしたため、直政自身でさえ家康の許可なしでは家中の人事も行いえなかったといいます。また、直政の性格上、家臣に対して冷徹な面があり、軍律も厳しいものでしたから、彼のもとを離れる者も少なくありませんでした。

ここからは具体的な名前を挙げながらご紹介します。まず井伊家家臣団の筆頭で、後に彦根藩の家老になった木俣盛勝について見ていきましょう。木俣盛勝は元々、家康に仕えていました(一時、出奔して明智光秀に仕えましたがその後復帰)が、天正壬午の乱で武田氏が滅亡するとその旧臣を徳川氏に招聘し、武田旧臣が直政の配下に入れられたのを機に直政の寄騎となりました。

直政が一軍の将となってからも先陣で戦うことを好んだため、陣にとどまって指揮をする役割はこの守勝が担いました。この守勝でさえ直政の厳しさに嫌気がさして、家康の下に戻りたいと訴えたことがあるといいます。
家康が江戸へ入ったタイミングで家臣団が再編された時に、守勝は正式に井伊氏に所属することになり、いわゆる「付家老」の先駆的存在となりました。その後は井伊氏、後には彦根藩の家老として活躍しますが、1610年に病に倒れ、家康から薬を送られるなど懸命の治療も甲斐なく、静養先の京都で亡くなりました。

他には、「井伊谷三人衆」と呼ばれる武将とその子供たちも知られています。井伊谷三人衆とは近藤康用(こんどう やすもち)、菅沼忠久(すがぬま ただひさ)、鈴木重時(すずき しげとき)の3人を指し、元々は今川氏真の家臣だったのですが、調略により徳川に離反した経緯があります。

近藤康用はすでにその時高齢で、その子・秀用(ひでもち)が直政の寄騎としてその片腕として活躍していましたが、直政の厳しいやり方に反発して出奔してしまいます。このことが家康に「自分の意向に背き、許可も得ずに出ていった」と捉えられ、秀用はその後10年にわたって家康に許されず、直政の死後、徳川秀忠と池田輝政の仲介でやっと旗本帰参を許されたといいます。

鈴木重時も永禄12年に戦死しており、その子の鈴木重好が直政の家臣となりました。重好は小牧・長久手の戦いで直政の一番槍に次ぐ槍下の高名をあげるなど活躍。彦根城の普請にも尽力します。しかし直政の死後、筆頭家老の木俣守勝とともに家老として藩政にあたりますが、家中の権力争いにより子の重辰と共に「不正を行っている」と訴えられ、家康の計らいにより隠居して所領の上野に追放されました。
(のちに秀忠の計らいにより水戸藩の家老となりました)

菅沼忠久は直政の配下になったのち、天正10年に死去。直接の貢献は少ないものの、その子の忠道は直政配下で関ケ原の戦いで功をあげています。

井伊直政の家紋「橘紋」について解説。その由来とは?


最後に、井伊直政が用いた家紋「橘紋」について見ていきましょう。

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橘紋には幾つか種類があるのですが、井伊家が用いた橘紋は、「彦根橘」または「丸に橘」と呼ばれる事もあります。

直政ら井伊家の当主が用いた「橘紋」の由来は、井伊家初代・井伊共保(ともやす)の出自の逸話にまでさかのぼります。それは共保が実は「捨て子」であったとするものです。

1010年、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市)にある八幡宮の神主が、お手洗いの近くの井戸に赤ちゃん(後の井伊共保)が捨てられているのを見つけました。そしてこの井戸の傍に橘の花が咲いているのを見つけた神主は、赤ちゃんが着る服のデザインに橘の花を用いたと言われています。ちなみに、橘の花は昔から「長生き」「生命」というイメージがあったため、健やかに育って欲しいという願いと結びつきやすい面はあったのだと思います。

井伊直政やその後の井伊家の当主以外に、この「橘紋」を使用した戦国武将には、尼子家の復興に尽力した山中鹿之介や五奉行の1人である前田玄以、黒田官兵衛のかつての主君であった小寺政職が知られています。

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この記事のまとめ


井伊直政の人物像やその家臣となった武将、そして使用した家紋についてご紹介しました。

恐妻家で、正室には頭が上がらなかった直政ですが、その人物像は基本的には自他共に厳しいタイプだったと言えるでしょう。そのあまりの厳しさに家臣たちはなかなか付いてこれず、特に「井伊谷三人衆」と呼ばれる有力な家臣は全て、井伊家を離れている程です。
その代わり、家康の意向によって武田家や北条家の遺臣が付けられている事から、直政がいかに主君から期待されていた存在であるかも分かりますね。

なお、以下の記事では井伊直政を含めた井伊直虎や彦根藩井伊家の家系図について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:井伊直虎の家系図を解説。井伊家のその後も気になる!