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島津家といえば九州・薩摩の歴史ある大名ですが、戦国時代の16代当主・島津義久の勢力拡大によって、ついに九州統一!!かと思ったら、豊臣秀吉の台頭によりその夢は消え去ることに・・・

ところで、島津家の全盛期を築き上げた島津義久とは、一体どんな人物だったのでしょうか?このページでは島津義久の生涯を年表を使って解説すると共に、弟の島津義弘との関係についても見て行きましょう!
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島津義久がどんな人物だったのかをわかりやすく解説!


まずは島津義久がどんな人物だったのかを、簡単にご紹介します。

島津義久は、鎌倉時代から続く九州・薩摩国の守護大名・島津家の15代当主・貴久の長男として1533年に誕生しました。その2年後には次弟・島津義弘が誕生しています。

島津家は義久の父・貴久の時代には薩摩国の統一も達成していなかったのに、義久が当主となってからの島津家は大躍進!義久が37才の1570年に薩摩国を統一し、40才で大隅国を統一、44才で日向国の統一も成し遂げました!さらに、豊臣秀吉が徳川家康を臣従させた頃には肥前国の龍造寺家を服属、豊後国の大友家を滅亡の寸前まで追い詰めるなど、島津家は九州全土の征服を実現する一歩手前の状態。

しかし、秀吉が惣無事令を発令し、大名間の領土紛争を禁じたのに対し、島津家はこの命令に従わない事を決断。これに対して秀吉は九州征伐を行う事になります。緒戦には勝利するものの、秀吉と弟・秀長が九州に派兵した22万人!の大軍勢と戦うこととなり、連戦も虚しく島津軍は薩摩国まで撤退し、義久は人質を差し出して豊臣秀長に降伏します。

この時、豊臣秀長は島津軍内部に義弘を中心とした降伏に反対する勢力があることを知り、徹底的に攻撃することを避け、秀長の独断で義久との和睦を決めるのですが、この独断での和睦に兄の関白秀吉が激怒!秀吉は和睦を認める一方で、側近の石田三成に命じて画策し、秀長と関係のよい義久を島津家当主から引きづり降ろした上で、最後まで戦う姿勢を貫いた義弘の勇猛ぶりを気に入り、義弘を島津家当主に据えてしまいます。

しかし、その後も島津家での実権は義久が握り続け、秀吉の没後の1600年、関ヶ原の戦いでは、薩摩国にいる義久は東軍の徳川家康に味方するよう義弘に意向を伝えますが、石田三成と親しい義弘は西軍に参加するため、薩摩国から大軍を送ってほしいと義久に頼み、でも、義久がこの頼みを無視したため、義弘はわずか1000人にも満たない軍勢で関ヶ原に向かい、西軍が惨敗した後、有名な敵中突破作戦で命からがら薩摩国に逃げ帰りました。

そして大勝利した東軍・徳川家康は、九州の諸大名に命じて島津領を包囲させます。しかし関ヶ原に参戦せず、力を温存していた1万人以上の薩摩兵の士気は高く戦う意欲満々でした。なので家康は下手に島津軍と戦って、開いたばかりの江戸幕府が痛手を受けては困ると考え、家康の方から折れる形で島津家の領地は減らされずに済んだのです。

粘り強い義久の政治的な交渉力と、十分な軍備を整え戦さに備えた義弘の軍事力とがガッチリと組み合わさって島津家を守りきったわけですね~。

そして薩摩の島津家は、江戸時代250年、そして幕末・明治維新へと代々続いてゆくのです。

島津義久の人生を年表でまとめてみた


ここでは、島津義久の年表をなるべくわかりやすくまとめてみました!


・1533年(0歳)
島津家当主・島津貴久の長男として誕生する。

・1554年(21歳)
薩摩、大隅の国衆との戦いである岩剣城攻めで初陣を飾る。

・1566年(33歳)
貴久の後を継ぎ、島津家16代当主となる。

・1570年(37歳)
薩摩国の統一を成し遂げる。

・1572年(39歳)
木崎原の戦いで弟、義弘が活躍。伊東家に勝利する。

・1573年(40歳)
禰寝氏、肝付氏、伊地知氏を服属させて大隅国の統一を成し遂げる。

・1577年(44歳)
日向国の統一を成し遂げる。
伊東家の当主、義祐は大友家を便り豊後国へ落ち延びる。

・1578年(45歳)
大友家が侵攻してくるが、これを耳川の戦いで打ち破る。

・1584年(51歳)
弟の島津家久が、沖田畷の戦いで肥後の龍造寺家に勝利する。

・1585年(52歳)
阿蘇合戦に勝利し、肥後国を平定する。
大友宗麟から助けを求めれた秀吉から、戦争を禁じる「惣無事令」が届く。
これを無視して、大友家の領地の筑前国の攻撃を命じる。

・1586年(53歳)
秀吉による九州征伐が開始される。
戸次川の戦いでは秀吉の連合軍に大勝する。

・1587年(54歳)
根白坂の戦いで豊臣方と戦い敗北を喫する。
剃髪して「龍伯」と号し、秀吉に降伏する。

・1590年(57歳)
秀吉から羽柴の名字を与えられる。
梅北一揆により、秀吉から弟・歳久の首を要求され、やむなく自害を命じる。

・1594年(61歳)
検地の結果、秀吉が義弘を事実上の島津家当主として扱う。
島津家当主の座を終われ富隈城(とみくまじょう)に移るが、実権は握り続ける。

・1599年(66歳)
「庄内の乱」が勃発し、重臣の伊集院家を粛清する。

・1600年(67歳)
関ヶ原の合戦で弟・義弘が西軍に加担する。
戦後、家康と講和交渉を行い、島津家は改易を免れる。


・1602年(69歳)
島津家当主を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居する。

・1611年(78歳)
大隅国にある国分城にて病死する。

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島津義久は子供の頃はおとなしい人物で、一時は後継者としてどうなの?と考える家臣もいたそうです。しかし義久の祖父で「島津家中興の祖」と言われる島津忠良は「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり」と評し、義久は領主としての資質に恵まれているから問題はないと述べています。
ちなみに弟の義弘について忠良は、「義弘は雄武英略を以て傑出したり」と、武勇と知略を兼ね備えた武将として評価しています。対照的な素質をもつサラブレッドの兄弟といった感じですね。

島津義久と島津義弘の関係はどのようなものだったのか?


では、この二人の兄弟仲はどのようなものだったのでしょうか。

島津義久と島津義弘の関係ですが、あくまで主君と家臣という間柄だったそうです。この兄弟は子供の頃から主従関係をハッキリする事を植え付けられており、義弘も義久について「義久様の弟として生まれる事が出来て光栄」といった事を書き残しています。戦国武将らしく、守るべき所はきちんと守っていたのでしょう。

しかし、義久と義弘の豊臣政権に対する距離感は微妙に異なっています。兄・義久は、豊臣秀長と親しく、徳川家康寄りの考え方で豊臣家を中央に置きながら地方分権の政治を望んでいたのに対して、弟・義弘は、勇猛な武将ぶりを秀吉に気に入られ、石田三成と親しくしていたので、関ヶ原の戦いのときには兄弟の意向は東軍、西軍に分かれてしまったわけです。しかし、1602年、徳川家康に対して、島津家の領土を守る交渉では兄弟団結して島津家の危機を乗り越えた後、義弘の息子、島津忠恒に娘を嫁がせ、島津家当主の地位を譲りました。

その後の島津家は、義久、義弘、忠恒の3人が一定の影響力を持つ「三殿体制」に突入し、家臣たちも誰に近いかで分裂した面があるなど、家中がバラバラになった面がありました。義久は自分の娘を忠恒に嫁がせていましたが、この夫婦の仲は悪く、このため義久と忠恒の関係は悪くなっていったようです。また義弘と忠恒が推し進めた琉球出兵にも義久は反対しており、1611年に義久が亡くなるまでこの体制は続きました。

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この記事のまとめ


島津義久がどんな人物だったのか、年表や弟の島津義弘との関係を踏まえてご紹介しました。

優れた政治家タイプの兄・義久と勇猛な武将タイプの弟・義弘は豊臣政権との距離感においても違いがありました。義久は豊臣秀長ー徳川家康のグループ、義弘は秀吉ー石田三成のグループで、関ヶ原の戦いでは二つに分かれますが、戦後の領地交渉では団結して島津家を守り、義弘の息子・家久(忠恒)に次代を譲っています。もし島津義久が九州でなく、近畿あたりの大名だったら九州統一ではなく、天下取りレースに加わっていたのかもしれませんよね。

なお、以下の記事では戦国時代から幕末にかけての島津家の家系図を解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:島津家の家系図を簡単に解説。薩摩藩の歴代藩主は?