大河ドラマ「おんな城主直虎」では、信濃に亡命した亀之丞(井伊直親)の協力者として、俳優のでんでんさん演じる奥山朝利という武将が登場します。

一体どのような人物だったのでしょうか。今回は、奥山朝利がどのような武将だったのかを、井伊家との関わりや朝利の子供たちのその後も含めて解説します。

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奥山朝利ってどんな武将?井伊家との関わりも解説!


まずは奥山朝利がどのような武将だったのか、簡単にご紹介します。

奥山朝利の人生は謎に包まれている部分が多く、どのような形で最後を迎えたのかも定かではありません。1544年に死去したとも、また娘の夫である亀之丞(後の井伊直親)を讒訴した事で知られる小野政次によって、1560年に攻め滅ぼされたとも言われています。ただ少なくとも、奥山親朝という武将の子供である事や、1955年まで現在の浜松市に存在した奥山村に拠点を構えていた事は分かっているようです。

朝利を輩出した奥山家は、先祖を辿ると井伊家に繋がっているため、井伊の庶子家とよばれます。平安時代には既に井伊家から別れていた奥山家ですが、戦国時代にいたっても井伊本家との協力関係はつづいていました。これは血縁だけではなく、ともに遠江国引佐郡で領地が近接している事から、地縁的な結びつきがあったためと考えられます。

また、江戸時代に書かれた『寛政重修諸家譜』という資料によると、父親の井伊直満を家老、小野政直の讒訴によって殺された後に信濃国に亡命した亀之丞が1555年に井伊谷に戻る際に頼りにしたのは、井伊家の当主である直盛ではなく、この奥山朝利だったという説があります。

当時、亀之丞は婚約者である次郎法師(直虎)ではなく、この朝利の娘であるおひよと結婚していました。許嫁の直虎をさしおいて朝利の娘を娶った罪悪感があったのかもしれません。何れにしても、亀之丞にとって奥山朝利が頼もしい存在であったことは疑いようもありません。

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奥山朝利の子供たちのその後の動向とは?


奥山朝利の死後には、どんなことがあったのでしょう。
朝利の子供達についてまとめてみました。

奥山朝利には長男の朝宗、次男の朝重、そして三男の朝家という3人の息子がいたと言われています。このうち嫡男の奥山朝宗は、桶狭間の戦いに井伊直盛とともに出陣し戦死しています。この朝宗の子供である奥山朝忠は、直盛の跡を継いだ井伊直親が小野政次の讒言で誅殺された後、井伊家の菩提寺である龍潭寺に匿われた虎松(後の井伊直政)を三河の鳳来寺へと逃すという大仕事をやってのけた人物です。

その後、奥山朝忠は家康の命によって井伊家に1500石で使える事となり、1629年に亡くなりました。奥山家は朝利、朝宗、そして朝忠と親子三代揃って、命がけで井伊家を支えたと見ることが出来ますね。また、次男である奥山朝重は井伊源左衛門の忍家を継ぎ、子の朝正、孫の朝長と続いてゆきます。そして三男の奥山朝家の家系も、子の朝房、そして孫の朝次と続きました。

こうした三人の息子たち以外にも、奥山朝利には多くの娘がいたことでも知られています。この中で最も著名なのは亀之丞(井伊直親)の正室となったおひよで、直親の死後は松下清景という武将と再婚しました。他にも伊一門の中野直之に嫁いだ女性や小野政次の弟、小野玄蕃に嫁いだ女性、与力として井伊家に赴任していた西郷伊予守や、井伊谷三人衆にも数えられる鈴木重時、遠江の豪族である菅沼氏に嫁いた娘も居ました。

こうして見ると、奥山朝利の子供は男は主に槍働きで井伊家を助け、女は井伊家と家臣を結びつけるしつけ糸のように縁組を重ねていたことがわかりますね。

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この記事のまとめ


今回は、奥山朝利とその子供達についてまとめてみました。

井伊家の分家である奥山家の当主である奥山朝利。
小野氏や今川氏と事を構える覚悟で、娘の夫である亀之丞(井伊直親)を支えた人物です。

彼の人生は謎に包まれてる部分も多いのですが、その人柄を一言で表すなら、控えめだが気骨ある武人という言葉がピッタリなのではないかと思います。朝利の武人としての気骨が、彼の子や孫にまで伝わってゆくその様子まで、今回ご紹介した事績からも伺えると言えるでしょう。

なお、以下の記事では奥山朝利を含めた井伊直虎や井伊家の家系図について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:井伊直虎の家系図を解説。井伊家のその後も気になる!