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大河ドラマ「おんな城主直虎」では三浦春馬さんが演じる井伊直親
主人公、直虎の婚約者という位置付けの人物ですが、一体どんな武将だったのでしょうか?

井伊直親の生涯を年表を使って解説すると共に、直親の妻についてもご紹介します。
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井伊直親はどんな武将だったのか?


まずは井伊直親がどんな武将だったのかを、簡単にご紹介します。

井伊直親は井伊家当主・井伊直盛の弟・直満の子として1535年に生まれますが、当主・井伊直盛には後継ぎとなる息子がいなかったために、幼くして直盛の娘(のちの井伊直虎)と婚約し、直盛の婿養子となります。将来は井伊家の当主としての道が開かれたのも束の間、井伊家筆頭家老・小野政直の企みによってその人生は一気に暗転してゆきます。

家老の小野政直は井伊家を滅ぼし、井伊谷城主の地位を狙っていて、主家の今川義元に偽りの密告をして、直親の実父・井伊直満を陥れます!その結果、井伊直満は自害に追い込まれ、息子である幼い直親も命を狙われることに!

そこで井伊直満の家老・今村正実は幼い若君・直親をカマス(ワラで編んだ大きな袋)の中に隠し、井伊家の領地である黒田の山中に隠れる事に。しかし、ここにも今川の追っ手が迫り、決死の逃避行の末、渋川の東光院にたどりつきます。そして東光院の住職・能仲(のうちゅう)は、師匠で井伊家の菩提寺住職を務めていた南渓和尚と相談し、信州市田の松源寺に二人はかくまわれることになります。
この事件によって、直親の生死は極秘となる一方で、婚約者の直盛の娘(直虎)も出家して次郎法師と名乗り、彼女の人生も大きく変転してしまうのです!


そして、信州・松源寺で今村正実は10年にわたって亡き主君の若君である直親を守り育て、直親は立派に成人します。井伊直満・直親親子を陥れた小野政直が他界した翌年の1555年になると、直親はやっと許されて井伊谷へ戻りますが、このときすでに、直親は井伊一族の奥山家の娘と結婚していました。

しかし1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死。そして今川臣下として参戦していた井伊家当主・直盛も戦死してしまいます。そして、直盛には後継ぎが無く、娘も出家してしまっていたことから、井伊谷に戻っていた直親が井伊家の後を継ぐことに!運命とは不思議ですね~。当主となった翌年には、長男・虎松も誕生しています。

こうした二転三転の末に、直親は井伊家当主となりますが、またもや邪魔がはいります!

筆頭家老の小野政次(政直の息子)がどうにかして井伊谷城主の地位を乗っ取ろうと、今川義元の没後、後を継いだ今川氏真に「直親が徳川と手を組み今川家への謀反を企てている」と密告を行います。これを聞いた今川氏真はただちに井伊谷城を攻め落とそうとしますが、井伊直親と親しかった親戚の新野親矩が仲立ちした結果、直親はひとまず駿府城へ行き、今川氏真に弁明する事を決意。

1563年、直親一行は少ない人数で井伊谷から駿府へ向かいます。しかし、その途中の掛川で、今川家の重臣で掛川城主の朝比奈泰朝の軍勢に取り囲まれ井伊直親はあえなく討ち死にしてしまいます。わずか28年の悲運の生涯でした。

井伊直親の生涯を年表を使って解説!


こうした井伊直親の生涯を、年表で整理すると以下のようになります。


・1535年
井伊家当主・井伊直盛の弟・井伊直満の子として生まれる。
幼くして当主・直盛の娘(後の直虎)と婚約し、直盛の婿養子となる。

・1544年
実父・直満が今川義元によって自害に追い込まれる。
幼少の直親も信濃国へ落ち延び、生死不明の状態となる。
その後10年間を信濃で過ごし、その間に一族の奥山家の娘と結婚する。

・1555年
小野政直が他界。成人した直親は井伊谷へ戻る。

・1560年
当主であり、養父の直盛が桶狭間の戦いで戦死し、井伊家の後を継ぐ。

・1561年
長男・虎松(後の井伊直政)が誕生する。

・1563年
小野政次の密告により、今川氏真から徳川家との内通の疑いをかけられる。
氏真に弁明するためにわずかな家来をつれて駿府へ向かう。
駿府へ向かう途中の掛川城付近で襲撃を受けて討ち死にする。

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直親の死後、井伊家は元当主の井伊直平や一族の新野親矩など、主だった家臣の多くが病死、あるいは戦死してしまいます。こうした背景から直虎が一時的に当主となり、徳川家康の力を借りて井伊家の再興に成功。また遠江国が家康の支配下になった後に直親の無実は証明され、私欲のために偽りの密告をした小野政次は処刑されています。

井伊直親の妻はどんな人?実は再婚してた?


さて、ここで気になるのが井伊直親の妻はどんな人だったのか、という事ではないでしょうか?

信州の松源寺で身を隠し、ひっそりと成長していた直親と結婚したこの女性は「ひよ」という名前で、その実家の奥山家は井伊一族でした。

先代・直盛の亡き後、やっと直親が当主となったわずか数年後には討ち死し、井伊家はまたもや存亡の危機に追い込まれてしまいます。このとき直親の長男の幼い虎松の命も狙われますが、直親の妻や、妻の兄といわれている新野親矩が、今川家のゴッドマザー・寿桂尼や、今川氏真に必死に嘆願して、なんとか虎松の命は救われました。

そして、井伊家の菩提寺・龍澤寺にかくまわれていた虎松の命をまたもや家老の小野政次が狙ったため、龍澤寺の住職・南渓和尚は奥山朝忠に命じて、虎松を三河の鳳来寺まで避難させています。母の実家の奥山家の人であれば、虎松の護衛をするのには適任で虎松を家老・小野政次から守り、井伊家の血筋を存続するために直親の妻の実家の奥山家が重要な役目を果たしたことがわかります。

虎松が成長すると、ひよや井伊直虎、南渓和尚らは彼を家康の小姓に召し抱えようと試みます。そのためにひよは松下清景という武将と再婚し、虎松を松下清景の養子という事にして家康へ仕官させる事に成功しました。1582年、虎松は井伊直政と名前を変え、家康の天下取りに多大な貢献を果たしていくのです。

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この記事のまとめ


井伊直親がどんな武将だったのかというテーマで、その生涯を年表を使って解説すると共に、実の妻についても解説してきました。

直親の短い生涯は、家老・小野政直、政次親子の企みに振り回され、運命のいたずら(?)で井伊家当主になったために、結局28才という若さで命を落としたという、悲運な一生と言っても仕方がないものである気がします。ですが、残された妻や直虎、実家の奥山家の人々の働きで井伊家の血筋は守られたんですね。

なお、以下の記事では井伊直親を含めた井伊直虎や井伊家の家系図について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:井伊直虎の家系図を解説。井伊家のその後も気になる!