貼り付けた画像_2016_09_07_11_39

日本の歴史を勉強していると、男の人ばかりが登場しますよね。そんな中でも、女性でありながら名前を残すほど活躍した人物に、北条政子(ほうじょうまさこ)という人がいます。


北条政子とは、一体どんな人だったのでしょうか。このページでは、北条政子について、年表を用いながら小学生の方にもわかりやすいようにご紹介します。また、政子が活躍した承久の乱についても取り上げてみました。
スポンサードリンク

北条政子ってどんな人?小学生にもわかりやすく解説!


まずは北条政子(ほうじょうまさこ)がどんな人だったのかを、小学生の方にもわかるようにご紹介します。


北条政子は1157年に、伊豆(現在の静岡県)で役人をしていた北条時政(ときまさ)の長女として生まれました。当時、父の時政は、京都から伊豆へと島流しにあった源頼朝を見張る仕事をしていました。その後、政子は頼朝は恋愛関係になり、やがて2人は結婚します。

ところが、当時の頼朝は罪人という立場だったため、政子の結婚は父親を中心に大反対された…のですが、反対を押し切って2人は結婚。政子の意志の強さを感じるエピソードですね。政子は頼朝との間に2人の男の子(源頼家、源実朝)と2人の女の子(大姫、乙姫)をもうけます。


その後、夫の頼朝は1185年に鎌倉幕府を開きますが、1199年に亡くなります。政子は頼朝の後を追って死ぬことを考えますが、2人の息子のことが気になり、思いとどまったそうです。ところが、2代目将軍頼家は病にかかり後に暗殺され、3代目将軍実朝も1219年に暗殺されてしまいました。政子は息子を失うとともに、鎌倉幕府存続の危機を迎えます。


この時、政子は京都の公家からむかえた2歳の将軍の後見人となり、鎌倉幕府を支える決断をしました。天皇家との対立から起こった承久の乱の処理など政治にも関わりながら、1225年に亡くなります。北条政子とは、意志の強い女性であるとともに、女性でありながら男性と同じように仕事を行ったと言えそうですね。

小学生でもわかる!北条政子のわかりやすい年表


ここでは北条政子の年表を、小学生の方にもわかるようにまとめてみました!


・1157年(0歳)
北条時政の長女として生まれる。

・1177年(20歳)
周りの反対を押し切り、源頼朝と結婚する。

・1180年(23歳)
夫の源頼朝が、平氏を討つために挙兵する。

・1182年(25歳)
長男で鎌倉幕府の2代将軍となる源頼家(よりいえ)を出産する。

・1192年(35歳)
夫の頼朝が、武士のトップである征夷大将軍に就任する。
次男で、3代将軍となる実朝(さねとも)を出産する。

・1199年(42歳)
頼朝が亡くなる。頼朝を弔うためお坊さん(尼さん)になる。
長男の頼家が第2代将軍を継ぐ。

・1203年(46歳)
頼家が出家し、次男の実朝が第3代将軍を継ぐ。

・1219年(62歳)
実朝が暗殺される。
源頼朝の直系が絶えたため、京都出身の藤原頼経を連れてきて、4代将軍にする。
政子は「尼将軍」となり、頼経の後見人となる。

・1221年(64歳)
朝廷との間に承久の乱(じょうきゅうのらん)がおこる。
尼将軍として、鎌倉幕府の武士たちを奮い立たせ、幕府方が勝つ要因となる。

・1225年(68歳)
北条政子が亡くなる。

スポンサードリンク


夫や子どもが先に亡くなってしまい、女性でありながら将軍と同じような仕事をこなした北条政子は、とても強くて立派な女性と言えそうですね。

とくに、1221年におこった承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉幕府最大のピンチと言われながらも、頼朝の家来たちを上手くコントロールしたほどです。

承久の乱とは?小学生にもわかるように解説!


最後に、承久の乱についても、あらためて見ていきましょう。
この戦いは、北条政子や鎌倉幕府と、京都にある朝廷のトップだった後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)との間におこった戦いです。力を伸ばそうとする武士と、この流れを食い止めたい朝廷との間でおこった側面もありました。

政子の息子で、3代目将軍源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府の地位は不安定なものとなります。
そこで政子たちは、朝廷の権力者である後鳥羽上皇の息子を将軍にしたいと考えます。


ところが、政治の権力を鎌倉幕府から天皇家へと奪い返したいと考えていた後鳥羽上皇は、この案を断ったのです。そこで鎌倉幕府は仕方がなく、藤原家から連れてきたわずか2歳の男の子(後の藤原頼経)を将軍すると同時に、政子はこの頼経の後見人として、仕事の代わりをつとめました。こうして女性ながら将軍と同じ仕事をこなす政子は、後に「尼将軍」と呼ばれるようになったのです。


やがて、政治の権力を天皇家へ取り戻そうとする後鳥羽上皇と、鎌倉幕府を率いる政子や実家の北条家との対立は深まっていきます。こうした背景のもとで、承久の乱はおこったのです。

戦いの前、政子は「源頼朝公のご恩を忘れてはいけない」と言い、鎌倉幕府に味方する武士たちを励ましました。承久の乱は、政子の言葉で勢いを得た鎌倉幕府側が勝利し、後鳥羽上皇は隠岐島に流されて終了します。これ以降、武士の力はより強くなっていったのです。

この記事のまとめ


このページでは北条政子がどんな人だったのかを、年表や承久の乱という出来事にも触れながらご紹介しました。

親の反対を押し切ってまで源頼朝と結婚して、頼朝が亡くなった後は息子たちを支え、鎌倉幕府を盛り立てた北条政子。子供たちが亡くなった後に、天皇家との争いである承久の乱が起こると、兵士たちを励まして鎌倉幕府軍の勝利に力を尽くしました。

「尼将軍」として、将軍と同じような仕事をこなした北条政子。
今で例えれば、働くママさんとも言えそうですね。

スポンサードリンク