%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_12_03_15_13 日本の歴史に必ず出て来る鎌倉幕府

しかしこの時代にどのような出来事があったのか、どんな役職が置かれ。幕府の場所はどこにあるのかを知ってる方は多くはないかもしれません。

鎌倉幕府の年表や役職、そして幕府がおかれた場所やその跡地について解説します。

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鎌倉幕府の年表をわかりやすく解説!


まずは鎌倉幕府の年表を、わかりやすい形でご紹介します。


・1183年
源頼朝が東国の支配権を確立する。
父・義朝の本拠地だった鎌倉に入る。

・1185年
壇ノ浦の戦いによって平氏が壇ノ浦で滅亡する。
頼朝が全国に、守護・地頭を置く権利を獲得する。
(逃亡していた弟・義経を捕えることが目的だった)

・1192年
頼朝が征夷大将軍となる。

・1199年
頼朝がなくなり、長男の頼家が2代将軍となる。
頼家の慣例を無視した独断的政治に、御家人の不満が高まる。
頼家の独裁を抑えるため、北条氏は有力御家人と計って13人の合議制をしく。

・1203年
頼家は将軍を廃され、伊豆の修禅寺に幽閉される。
頼家の弟である実朝が3代将軍に就く。
北条時政が執権に就き、執権政治始まる。

・1204年
幽閉されていた頼家が、修禅寺で北条時政によって暗殺される。

・1219年
実朝が頼家の子供である甥の公暁に殺害される。
源氏の将軍はここで途絶える。

・1221年
承久の乱が発生。京で後鳥羽上皇が討幕のために挙兵するが敗北する。
幕府は六波羅探題を設置し、朝廷や西国の御家人を監視する。

※参照:北条政子ってどんな人?年表や承久の乱を小学生向けに解説!

・1224年
北条泰時が3代執権となる。

・1226年
摂関家の藤原頼経が4代将軍に就任する。

・1232年
北条泰時が、日本最初の武家法である御成敗式目を制定する。

・1246年
北条時頼が5代執権になる。

・1247年
宝治合戦が起こる。有力御家人の三浦泰村が北条氏に反乱を起こすが敗北する。
合議制による執権政治から、得宗家(北条氏の嫡流)による専制体制へ移る。

・1268年
時頼の子、北条時宗が8代執権に就く。
元からの朝貢要求を断る。

※参照:北条時宗の家族について。兄の北条時輔とは?妻や子供はどんな人?

・1274年
文永の役(1度目の元寇)が勃発する。
元と高麗の連合軍で対馬・壱岐を攻めてくる。
元軍は博多湾に上陸するが、内部対立などが原因で引き上げる。

・1281年
弘安の役(2度目の元寇)が勃発する。
塁や効果や武士の奮闘、暴風雨の影響により元軍は撤退する。

・1297年
日本の最初の徳政令である「永仁の徳政令」が出される。
当時、御家人の借金が急増しており、これを解消するのが目的だった。

・1318年
京で後醍醐天皇が即位する。

・1324年
正中の変が勃発。後醍醐天皇が討幕計画を立てるが失敗する。

・1331年
元弘の変が勃発。後醍醐天皇が2度目の討幕計画を立てるが失敗。
楠木正成や護良親王などが挙兵する。

・1333年
有力御家人の1人である足利尊氏が、京の六波羅探題を攻め落とす。
同じく御家人の1人である新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府が滅亡する。
得宗家最後の当主であった北条高時は、一族や家臣と共に自害する。

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鎌倉幕府の年表を、主な出来事に絞ってご紹介しました。

源頼朝が立ち上げた鎌倉幕府ですが、その二人の子供は殺されてしまったため、実質は北条氏が鎌倉幕府の実権を握っていた事がわかりますね。しかし最終的には御家人の不満が高まり、同時期に発生したに後醍醐天皇の挙兵によって鎌倉幕府は滅亡してしまうのです。

鎌倉幕府の役職を年表を使ってわかりやすく解説!


続いて、鎌倉幕府の役職を見ていきましょう。

まずは役職が設置された順番を年表を使ってご紹介します。


・1180年:侍所が設置される。

・1183年:守護・地頭が設置される。(頼朝の支配地のみ)

・1184年:公文所と問注所が設置される。

・1185年
守護・地頭の設置を全国に拡大する。
京都守護と鎮西奉行が設置される。

・1189年:奥州総奉行が設置される。

・1191年:公文所の名称を政所に改称する。

・1217年:この時期、蝦夷代官が設置されたとされる。

・1221年:承久の乱の後に、六波羅探題を設置される。(京都守護は消滅)

・1225年:連署と評定衆が設置される。

・1249年:引付衆が設置される。

・1274年:文永の役(1回目の元寇)が勃発する。

・1276年:長門探題が設置される。

・1281年:弘安の役(2回目の元寇)が勃発する。

・1293年:鎮西奉行に代わり、鎮西探題を設置する。


また、それぞれの役職の意味は以下の通りです。


将軍…鎌倉幕府の頂点。しかし、頼朝以降は政治的な権力が薄れ、源氏が3代で途絶えたあとは京の摂関家や皇族から将軍を選んだ。鎌倉幕府の将軍はその後9代まで続いた。


幕府の中枢を担う役職
は以下の3つです。

執権…北条時政が執権となって以来、幕府の実権を握る。代々、北条氏がこの職に就いた。
連署…執権の補佐役。
評定衆…執権と有力御家人で構成。


この3つの役職の下にさまざまな役職が置かれています。
大きく中央(鎌倉)と地方に分かれます。


鎌倉で仕事にあたる役職は次の4つです。

侍所…御家人の統制、軍事・警察権
公文所→政所…政務全般を担当
問注所…訴訟や裁判を担当
引付衆…御家人の所領に関する裁判担当


鎌倉以外の各地方で仕事にあたっている役職は以下の5つです。


奥州総奉行…奥州の御家人を統率する
蝦夷代官…蝦夷地方を統括する。
京都守護→六波羅探題…京の警備、西国の政治・軍事を統括する
長門探題…長門・周防の2国の守護と兼任。元寇対策。
鎮西奉行→鎮西探題…九州の御家人の統率。元寇対策。

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鎌倉幕府があった場所はどこなのか?跡地はどうなってる?


ところで、鎌倉幕府があった場所はどこなのでしょうか?

実は鎌倉幕府があった場所である「御所」は、二回移動してるのです。

最初の場所は大蔵御所とよばれ、源頼朝から3代将軍の源実朝までがここで政治を行いました。源頼朝は1180年に鎌倉の地に入り、鶴岡八幡宮の北東一帯に邸宅を築きます。鎌倉を選んだ理由としては、この土地の特徴である三方を山に囲まれ、南を海に臨み、攻め込まれにくい地形、そして父の義朝の根拠地だったことが挙げられます。頼朝は鶴岡八幡宮および宮と南側の海を結ぶ若宮大路を軸として、まちづくりを行います。この周辺には有力御家人の邸宅や、おもな役所がありました。

大蔵御所があった跡地は現在、清泉女学院清泉小学校や住宅街になっています。小学校の正門の手前には、大蔵御所の場所を示す石碑が建てられています。

さて、源氏の血筋が途絶えたあと、北条氏が執権となって幕府の実権を握ります。1225年、3代執権・北条泰時は、大蔵にあった幕府の役所などを鶴岡八幡宮の南側に移します。若宮大路の東側を南北に走る宇都宮辻子という道に面するかたちで、「宇都宮辻子御所」と呼ばれる御所が造営されました。

鎌倉幕府はこの年に、京から藤原頼経を4代将軍に迎えましたが、北条政子が亡くなったため、心機一転をはかって移転したといわれています。この地に移した理由は、北条氏の邸宅があったためと考えられます。また、この宇都宮辻子御所の跡地には、宇都宮稲荷神社があります。神社のあたりが御所の南門があった場所と推定されています。この神社の前にも御所があったことを示す碑が建っています。

宇都宮辻子御所に移ってから11年後の1236年、北条泰時はさらに御所を宇都宮辻子御所の北側へ移します。移転の理由ははっきりとせず、4代将軍・藤原頼経の病気説などがあります。この御所は若宮大路御所とよばれていますが、移転というよりは、宇都宮辻子御所を北へ拡張し、面する方向を宇都宮辻子から若宮大路に変えたという説もあります。新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府が倒れる1333年までの約100年間、ここに幕府が置かれていました。

若宮大路の東側、鶴岡八幡宮のすぐ南に位置する住宅街が若宮大路御所のあった場所です。
跡地にはやはり石碑が建っているだけです。

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この記事のまとめ


今回は鎌倉幕府の成立から滅亡、そして役職を年表を使ってご紹介すると共に、幕府があった場所の変遷やその跡地についてご紹介しました。政治と連動して幕府の場所が移動している様子が分かってもらえたと思います。

日本で最初の武士による政治が行われた鎌倉幕府の形は、室町幕府、江戸幕府と引き継がていきました。この3つの幕府の違いについては以下の記事で解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さい。

※参照:鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の特徴と違いを解説!