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鎌倉幕府第8代の執権、北条時宗
彼は二度の蒙古襲来による心労がたたって、34歳(数え年)の若さで亡くなったと言われています。その人生は兄の北条時輔との対立も含め、波乱続きだったと言えるもの。

そして、そんな若くして亡くなったのであれば、奥さんは切なかっただろうなぁ…。
と、そこまで考えて、そもそも時宗の奥さんや子供ってどんな人?という疑問がわきました。

そこで少し、北条時宗の家族について調べてみました。
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北条時宗の兄、北条時輔が冷遇されていた理由とは?


北条時宗は嫡男として産まれたのですが、父である五代目の執権、北条時頼にとっては次男にあたる人物です。

それは何故なのかと言うと、時宗には母親が違う北条時輔という兄がいたから。
時宗の母親は北条時頼の正室なのに対し、北条時輔の母親は側室にあたります。

これについて北条時頼は、正室の子である北条時宗を自分の跡継ぎと北条家の内外に位置付けるために、烏帽子親となる者の位に差を付けたり、時宗の背行名を「太郎」、時輔を「三郎」とするなど、2人の間に差を付けることをしきりに行っていました。一説では、時頼自身も兄の死後に執権になったため、その正当性を保つために行ったとか、あるいは自分に反対する勢力が時輔を担ぎ出す事を恐れたためと言われています。

時頼の死後、北条時頼は京都の六波羅探題に出向きます。しかし1272年、謀反をはかったとして弟である時宗の命令によって討伐される事に。25歳の若さでなくなった時輔ですが生存説もあり、2001年の大河ドラマ「北条時宗」では、時輔はモンゴルと戦う弟、時宗を支えていたという設定で描かれていました。

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北条時宗の妻・覚山尼ってどんな人?


話を時宗に戻しますが、彼には覚山尼(かくざんに)という妻がいました。

彼女は鎌倉幕府の有力御家人の安達氏の娘にあたる人物です。覚山尼というのは、出家したときの尼さんとしての名前で、本名は残念ながらわかっていません。

覚山尼の父親、安達義景は彼女が生まれた翌年に亡くなってしまいます。そのため、まだ1歳だった覚山尼は年が離れていた兄の安達泰盛のもとで育てられています。
安達泰盛と言えば、後に執権となる北条時宗を親戚として支える一方で、時宗の死後の翌年におこった「霜月騒動」によって滅ぼされた事で知られている人物。逆に言えばそだけ力があった御家人という事にもなり、その家に生まれた娘だからこそ、北条家の当主である時宗の正室になれたのでしょう。

※参照:宮騒動、宝治合戦、霜月騒動の違いをわかりやすく解説!

1284年に夫が亡くなった後、覚山尼は霜月騒動によって粛清された実家の復権に尽くした他、鎌倉時代にある東慶寺の設立を行ったり、夫との関係に苦しむ女性を救済する事業を行ったと言われています。今で言うところの社会事業家に近い存在だったのかもしれませんね。

北条時宗の子供、北条貞時ってどんな人?


また、北条時宗と覚山尼の間には嫡男、北条貞時が生まれています。
時宗には側室がおらず子もいなかったため、この子がすんなりと嫡男となりました。

貞時は1272年に生まれ、小さい時の名前は幸寿丸と言いました。その12年後に父、時宗がなくなったため、たった13歳(数え)で、鎌倉幕府の第9代の執権になります。
13歳の執権を助けたのは、母・覚山尼の兄、すなわち貞時の伯父にあたる安達泰盛でした。しかし、泰盛が政治に関わるのをよく思わなかった勢力も少なくありませんでした。その代表が北条家の嫡流である得宗家に使える内管領(ないかんれい)を務め、貞時の乳母の夫でもあった平頼綱という人物です。

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そして貞時は平頼綱の進言によって伯父を殺してしまう(霜月騒動)のですが、今度は平頼綱が鎌倉幕府の実権を握ったため、この頼綱自身を殺してしまうのです。一説によると、頼綱は次男の飯沼資宗(いいぬま すけむね)を次の将軍にしようと企てており、これを頼綱の長男である宗綱が密告したと言われています。

その後、貞時は父、時宗を見習って得宗家の勢力回復に力を注ぎますが上手くいかず、借金を抱えた御家人が増えるなど、世の中は乱れるばかりでした。
1297年には日本初の徳政令とされる「永仁の徳政令」を発布しますが上手くいかず、御家人が借金しにくくなる状況を作り出すだけでした。

※参照:徳政令の内容を簡単に解説。出した人物や棄捐令との違いは?

そのため貞時はやる気を失い、酒浸りになったと言われています。これを機に得宗家の権力も失墜してしまいました。貞時は1311年に41歳で亡くなり、子供でわずか9歳の高時がその後を継ぐこととなります。

この記事のまとめ


このページでは「北条時宗の家族」というテーマで、兄の北条時輔や妻の覚山尼、そして子供の北条貞時を調べてみました。

時宗が短命だったのは、蒙古襲来だけではなく、兄の北条時輔の一派との対立・殺害などで心を痛めたからなのではという子もします。時宗の死後も北条家内では対立が続き、この事が子供の貞時がやる気を失ってしまった理由、そして鎌倉幕府の滅亡に繋がっていくのだとも感じます。

この時代がもしも平和であれば、兄弟で争う事はなく、時宗自身もも長生きして、覚山尼や貞時と仲良く暮らせていたのかもしれませんね。