西郷隆盛、大久保利通、そして木戸孝允の三人を「維新の三傑」と言いますが、ではこの3人が「三傑」に選ばれた理由は何だったのでしょう。

坂本龍馬が「三傑」選ばれなかった原因も気になりますね。

また、似たような言葉である「維新の三傑」についても詳しくご紹介します!

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維新の三傑に、西郷・大久保・木戸が選ばれた理由とは?


維新の三傑」とは、統幕と明治維新の成立に特に功績のあった西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三人を指す言葉ですが、ではなぜこの3人が、維新の三傑の選ばれたのでしょうか。

まず大きな理由は、この三人が討幕と明治初期の両方で薩摩、長州のリーダーとして活躍した事です。「薩摩が2人なのに長州はなぜ1人なの?」と思われるかもしれませんが、実は長州藩には木戸と並ぶもう一人のリーダー、広沢真臣がいたのです。

広沢真臣は明治2年、そして12年に維新の功労者の功績を賞する際、いずれも木戸や大久保と同格の賞が授与されています。しかし彼は彼は明治4年に暗殺されてしまいました。もし広沢があと4~5年生きていれば、維新4傑となっていた可能性もありますね。


次にこの三人の主な功績を見ましょう。


幕末から明治初期にひと際人気が高かった西郷隆盛。彼なくしては、薩長同盟、江戸の無血開城は成功していなかったでしょう。維新後より幕末での活躍が評価される西郷ですが、明治天皇も非常に彼を信頼していたそうです。業績という形に残っていなくても、維新期も人望という面で新政府を支えていただろうことは想像に難くありません。

※参照:西郷隆盛が幕末や明治時代にしたことは?その業績を解説!


大久保利通は、幕末期には西郷を補佐し薩摩藩を主導。維新後は日本の近代化を図り、維新期の事実上のリーダーだったと言えます。幕藩体制から脱却し富国強兵を図った大久保は、権力に執着し、国民よりも国家を優先した冷酷な人物と評されがちです。ですが、死んだ時わずか180円の私財に対し、国の事業を肩代わりして8000円もの借金があったことは、やはり三傑に相応しい人物だったのでしょうね。

※参照:大久保利通が幕末や明治以後にしたことは?その業績について


薩長同盟の長州藩代表だった木戸孝允。長州藩のリーダーというと高杉晋作が思い浮かぶかもしれませんが、エキセントリックだった高杉は藩内外で危険視されていました。その点木戸は人望や深慮もあり、長州藩の不満分子をまとめることができました。明治初期においては、五箇条の御誓文、封建制度の廃止、近代的制度の整備にむけて尽力しました。

※参照:木戸孝允が幕末や明治時代にやったことは?晩年やその死因について!


“日本資本主義の生みの親”として知られる渋沢栄一はこの3人を「情の西郷隆盛」「意の大久保利通」「知の木戸孝允」と評しています。それぞれの才能を適所で発揮できたからこそ、西郷、大久保、木戸は「維新の三傑」に選ばれたと言えるでしょう。

坂本龍馬が維新の三傑に選ばれなかった理由とは?


その一方で、薩長同盟の締結で大きな功績を残した坂本龍馬が、なぜ「維新の三傑」に選ばれなかったのか…と疑問に思われている方は多いと思います。

「維新の三傑」に選ばれる理由が幕末、明治初期での活躍にあるのなら、坂本龍馬が三傑に選ばれなかったのは幕末に暗殺されてしまったからと言えます。維新の功績に対する行賞をみても、西郷2000石、大久保・木戸1800石に対し、龍馬はわずか30石でした。明治初期には龍馬はほとんど知られていなかったのです。

龍馬の功績は、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』のフィクションで過大評価だとよく言われます。人気の元祖は明治16年、坂崎紫瀾の『汗血千里の駒』にあります。これらの小説が龍馬の価値を高めましたが、実際の彼の功績は不明確な部分も多く、個人的には「維新の三傑」に龍馬が入っていないのは、ある意味仕方がない事だと思っています。

また、薩長同盟の締結には同じ土佐藩士である中岡慎太郎の功績も大きく、龍馬を維新の三傑に入れるなら中岡も…という理屈になってしまいます。そもそも明治政府の中心となったのは薩摩藩、長州藩が中心であり、こうした藩の力関係を踏まえても、龍馬が「維新の三傑」に入るのは難しいと言わざるを得ないでしょう。

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維新の十傑とは?選ばれなかった藩はどこ?


ところで、「維新の十傑」という言葉があるのをご存知ですか?
「維新の三傑」とは何が違うのか、気になりますね。

維新の十傑は、山脇之人という当時の作家がが1884年に刊行した『維新元勲十傑論』の中で、討幕に尽力し、明治維新を実現させ、さらに明治政府の樹立と安定に貢献した10人の人物を指した言葉です。ですから討幕に参加していないとか、維新前に死亡してしまった人物は十傑に選ばれていません。勝海舟、吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬らが入っていないのはそのためです。

維新の十傑に選ばれたのは、以下の人物です。

・岩倉具視(公家)
・西郷隆盛(薩摩、維新の三傑)
・大久保利通(薩摩、維新の三傑)
・小松帯刀(薩摩)
・木戸孝允(長州、維新の三傑)
・広沢真臣(長州)
・大村益次郎(長州)
・前原一誠(長州)
・江藤新平(肥前)
・横井小楠(肥後)


この中で、「維新の三傑」と同じくらい評価されていた人物として有名なのが広沢真臣、そして肥後藩出身で越前の松平春嶽の顧問を務め、広沢と同じく明治政府が樹立された後に暗殺されてしまった横井小楠です。この2人が長生きしていたら、その知名度は今より高かった事でしょう。

一方、明治維新は「薩長土肥」の4藩によって成立した事で知られていますが、この「維新の十傑」には土佐藩士の名前がありません。土佐では後藤象二郎・板垣退助が代表者格ですが、彼らは十傑に選ばれなかったのは興味深い所です。

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この記事のまとめ


維新の三傑」に西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が選ばれた理由や坂本龍馬が漏れた原因、そして「維新の十傑」について解説してきました。

明治政府の樹立に功があった横井小楠や広沢真臣の知名度が低い一方で、この2つに選ばれなかった坂本龍馬の人気は西郷、大久保、木戸を上回る勢いです。生前の功績より作品での描かれ方が後世に影響を与えている事は興味深い一方で、実際の評価を捻じ曲げる恐れがあるので怖い面もありますね。

また、「維新の十傑」の9名は明治11年までに人生を終えています。
暗殺4名、病死2名、刑死2名、戦死1名・・・

この数字をみれば、明治維新を迎えても新政府の舵取りがいかに難しく危険なものだったかが改めて実感出来ると言ってもいいでしょう。