%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%88_2016-12-04_13_12_08 動乱の幕末、長州藩(山口県萩市)に生を受けた高杉晋作。ときには長州藩を危機にさらし、ときには危機から救い、暴れ牛のごとく自分の心と信念のまま走り抜けた男です。

ここでは、揺れる長州藩を自分の命をかけて討幕へと導いた立役者である高杉晋作の人物像やその家紋の由来、また子供や子孫の方について解説していきます。

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高杉晋作の人物像はどのようなものだったのか?


まずは高杉晋作の人物像がどのようなものだったのか、ご紹介していきます。

子供の頃の高杉晋作は大の勉強嫌い。14歳で藩校、明倫館に入学しても勉学より剣術に打ち込む毎日でした。負けん気も強かったようで、幼馴染の久坂玄瑞に誘われ松下村塾に入門した時には、師となる吉田松陰から「久坂より劣っているな」と言われた事から、心機一転学問にも取り組んだ逸話も残されています。

思い切りの良さも、高杉晋作の人物像を語る上では欠かせません。品川に建設中の英国公使館を焼き討ちを行った高杉に対して、長州藩は「10年早い」と待ったをかけます。すると高杉は「では10年暇を頂きます」と髪を切って坊主になり隠遁を宣言。しかしわずか2ヶ月で復帰し「奇兵隊」の構想をぶちまけ、身分に関係なく兵をつのり初代総督になります。普通の人ではなかなか出来ない事ですよね。

そんな高杉晋作の人物像を、伊藤博文は「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と評しています。下関戦争の和平交渉で彦島の租借を求められた際は、古事記を暗唱して有耶無耶にしたと言われています。また、藩内で幕府と恭順を図ろうとする保守派が台頭してきた際は、「これよりは長州男児の腕前お目にかけ申すべく」とわずか80名で決起。見事勝ち進み反論を倒幕に統一してしまうのです。普通の人では予想も出来ない行動が出来る点も、高杉晋作の人物像を語る上では欠かせない要素と言えるでしょう。

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高杉晋作の家紋について


ところで、高杉晋作が使っていた家紋って何かご存知ですか?

高杉晋作の家紋は「丸に四つ割菱」です。

marunitakedabishi この家紋は、もともと清和源氏である源義光の流れをくむ家紋です。この家紋は、源義光が使っていた「楯無の鎧」(たてなしのよろい)に付いていた金具の花菱を由来としているもので、戦国時代に活躍した武田信玄も、この家紋を使用していた事で知られています。

武田信玄に代表される武田家ですが、実は全国に「武田さん」が居たのです。その1つが今の広島県にいた安芸武田氏で、高杉晋作のご先祖様はこの安芸武田氏の一族だと言われています。この安芸武田氏の一族の中には長州藩の藩主である毛利家に仕えた者も多く、そのため高杉晋作が生まれた山口県にも、この「丸に四つ割菱」を使用している家は多いと言われています。

高杉晋作の武神のごとき奮闘は、やっぱりご先祖様から受け継いだDNAならではのものだと思ってしまいますよね。

※参照:武田信玄のプロフィールや風林火山の意味、その強さとは?

高杉晋作の子供や子孫はいるの?


また、高杉晋作には子供はいたのでしょうか?
子孫の方が現在もいるのかも気になりますね。

高杉晋作には正室であるまさとの間に、東一という子供がいました。この高杉東一は父親の死後、母親や高杉晋作の父親にあたる小忠太によって育てられたようで、成長した後は外交官となりハワイやオーストリア等で勤務しています。業績として、日本における初期の英和辞典である『英和新国民辞書』の訳にかわかった他、父親の功績で爵位を打診された際、「父親の七光りという事なら欲しくない」と断ったエピソードが残されています。

この高杉東一には二男二女がいて、その長男である高杉春太郎は戦前は陸軍に属し、戦後は商社で要職に就かれています。またその子供である高杉勝氏は大成建設に勤めた後、下田開国博物館で高杉晋作の遺品を管理されていました。

そして高杉晋作の子孫、現在の高杉家の当主は、高杉晋作の玄孫にあたる高杉力氏です。力氏は、高杉晋作の遺品を萩市と下関市に寄贈した事でニュースになった事がありました。こうした遺品の中には、家紋が入った産着や晋作が使用した三味線が含まれています。山口県に行く機会があれば、高杉晋作のゆかりの品を見て回るのもいいかもしれませんね。

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この記事のまとめ


今回は高杉晋作の人物像や使用した家紋、子供や子孫の方についてご紹介しました。

江戸にいたとき高杉は松陰に「男子たる者の死」について尋ねたことがあります。

松陰の返事には『死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし』とありました。大きな花火をいくつも打ち上げて明治の夜明けを見ることなく夜空に消えていった男、高杉晋作。師の言葉の通り生き、そして死んでいった彼の太く短い一生は今なお、多くの人の心に残っていると言えるでしょう。