貼り付けた画像_2017_01_20_18_23 豊臣秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛。同じ秀吉の家臣である黒田官兵衛と共に「両兵衛」として知られている人物ですが、その前半生など詳細についてはあまり知られていません。

半兵衛は一体どのような武将だったのでしょうか。その妻や子孫の方を交えて、竹中半兵衛重治とはどのような武将だったのかをご紹介します。

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竹中半兵衛重治とは?女性らしい外見と武士らしいその最後


まずは竹中半兵衛重治とはどんな人物だったのか、簡単にご紹介します。

竹中半兵衛重治は1544年に斎藤家の家臣、竹中重元の嫡男として産まれました。「半兵衛」とは通称で、元服した時には重虎と名乗り、後に重治と名を改めています。半兵衛の外見は女性のように細かったと言われており、主君にあたる斎藤龍興の側近、斎藤飛騨守からバカにされて、櫓の上から小便をぶっ掛けられたという逸話まで残されています。

ただ「戦国時代を代表する軍師」と称される程、半兵衛は非常に優れた武将でした。1561年に、主君が斎藤義龍から龍興に変わった時、織田信長がこの機に乗じて美濃へ攻め込んできます。この時、斎藤家を率いたのが半兵衛でした。彼は「十面埋伏」という計略を使って信長を破り、その2年後にも織田家を破っています。

1567年に斎藤家が滅亡すると、半兵衛は信長に乞われて織田家の家臣になります。この時、勧誘にやって来た秀吉の力量を見抜き、織田家の家臣ではなく秀吉の家来となる事を了承します。1570年の姉川の戦いでは、かつての知人である浅井長政の家臣を寝返らせる働きを見せたり、実戦でも妻の父親にあたる安藤守就の部隊に所属していました。

この頃から、半兵衛は秀吉の与力として働くようになったと言われています。1578年には宇喜多家の八幡山城を謀略によって落城させる手柄を上げた半兵衛でしたが、その翌年の三木城攻めの途中、肺病に倒れて39歳の若さで亡くなってしまいました。この時、半兵衛は武士らしく戦場で最後を迎えたいと秀吉に懇願したという逸話が残されています。

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竹中半兵衛重治の妻・得月院とは?


それでは、竹中半兵衛重治の妻はどのような女性だったのでしょうか。

半兵衛の正室は得月院という女性で、斎藤道三や義龍、龍興から織田信長に仕えた西美濃三人衆の1人、安藤守就の娘にあたる人物です。2人の間には1573年に嫡男の竹中重門が産まれている他、半兵衛はこの得月院以外には側室を置かなかった事も分かっています。夫婦仲はおそらく良好だったのではないでしょうか。

ただ、この得月院という女性の詳細は、あまり伝わっていないのは現状です。ただ1564年、半兵衛は義父の安藤守就らと共に酒色におぼれる主君、斎藤龍興から稲葉山城をわずか1日で占拠して、かつて自分をバカにした斎藤飛騨守を誅殺したという事でも知られています。
この点を踏まえると、少なくともこの時期には半兵衛と得月院は結婚していた、少なくとも縁談のようなものが持ちかけられてた可能性はあったのではないかと思います。

※参照:斎藤道三ってどんな人物?父親の松波庄五郎や家臣について!

竹中半兵衛重治の子孫は今もいるの?


また、竹中半兵衛重治の子孫は現在もいるのか気になりますね。

1579年に亡くなった半兵衛の跡を継いだのは、上記でも触れた嫡男の竹中重門でした。その10年後、重門は美濃国に5000石を与えられ、1600年の関ヶ原の戦いでは井伊直政の説得を受けて東軍に付き、最終的には江戸幕府の旗本として6000石を領し、新しく岩手城を築いてそこを居城とする事となりました。

半兵衛の子孫は大名になる事こそありませんでしたが、竹中重門の家系は諸大名と同じように参勤交代を行う事が許される「交代寄合」として江戸時代を通して存続します。しかし、幕末の当主である竹中重固(しげかた)は江戸幕府の陸軍奉行として新政府軍と戦うも敗北し、岩手城と6000石を失う事となりました。

現在の竹中家の当主は竹中重男さんで、祖母から受け継いだ雛人形作りを都内で手がけているそうです。その腕前は経済産業省にも認められるほど優れたものだとか。
また、半兵衛の子孫にあたる方には、狂言師の和泉元彌さんの母親で、岐阜県大垣市出身の和泉節子さんもいらっしゃいます。竹中家は江戸時代を通して存続しているため、半兵衛の子孫にあたる方は現在でも日本全国にいるのでは、という気がしますね。

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この記事のまとめ


竹中半兵衛重治とはどんな人物だったのかを、妻や子孫の方を交えてご紹介しました。

竹中半兵衛と言えば、同じ秀吉に軍師として仕えた黒田官兵衛との比較もよく話題に上がりますよね。官兵衛の息子である松寿丸(後の黒田長政)の命を救った事もある半兵衛ですが、その恩義を長政も忘れなかったのか、半兵衛の孫にあたる重門の庶子が、長政が藩主を努める福岡藩に仕官するという事も見られました。

その一方で、竹中半兵衛の功績は後世で脚色されているものも少なからずあり、実際の人物像については分かっていない部分もあります。今後研究が進めば、半兵衛がどのような人物だったのかがより明確になるのではないでしょうか。