日本の歴史を語る上で、織田信長は非常に大きな存在だと言えます。
室町幕府が衰退した日本を立て直し、天下統一を目指した信長。
彼は一体何をしたのでしょうか?
今回は、「織田信長がしたこと」というテーマで、信長の業績をわかりやすくまとめてみました。
若い頃の織田信長がしたことをわかりやすく解説
まずは若い頃の信長がしたことを、1567年の美濃国平定までの歴史を目処にまとめてみました。
帰蝶(濃姫)と結婚する
1548〜49年頃、信長は美濃国の領主である斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)と結婚します。この出来事は、信長が織田家の家督を継ぐ者として認められた証であると言われています。
帰蝶のその後については諸説あるものの定かではなく、二人の間に子供はいないと言われています。
※参考:斎藤道三ってどんな人物?父親の松波庄五郎や家臣について!
尾張国を統一する
1551年に信長の父・信秀が亡くなります。このため家督を継いだ信長ですが、その地位は盤石ではありませんでした。
織田一族である清須織田家や、弟の信勝(信行)との戦いに勝ち抜く必要があった為です。
主君にあたる尾張守護、斯波氏を尾張から追放したりもしています。
そして1565年、犬山城の織田信清を滅ぼし、尾張国の統一を果たします。
桶狭間の戦いで今川義元を破る
1560年、隣国の今川義元が尾張へ侵攻してきます。織田家と今川家は、信長の父・信秀の代から闘っていましたが、この時期になると織田家は劣勢になっていました。
兵力において圧倒的不利な立場にいた信長ですが、義元の陣中に奇襲をかけこれを打ち取ります。
この戦いを機に、信長は勢力を拡大させていく事となります。
※参考:桶狭間の戦いを簡単に説明。信長の勝因や徳川家康の動向は?
徳川家康と同盟を結ぶ(清洲同盟)
桶狭間の戦い後、信長は今川家から離れた徳川家康と同盟を結びます。これによって信長は今川や武田家との戦いを家康に任せられるようになり、美濃や京都への上洛に力を注げるようになりました。
斎藤家に勝利し美濃国の領主になる
義父にあたる斎藤道三の死後、信長と斎藤家との関係は険悪なものになりました。斎藤家との戦いは1561年頃からはじまり、1567年の斎藤家の居城である稲葉山城を攻め落とし、岐阜城と改め自身の本拠地としています。
楽市楽座令:商業の振興をはかる
美濃国制圧後、信長は楽市楽座令を出し、戦後復興および商業の振興をはかります。楽市楽座令はその後、近江国でも発布されました。
関所を撤廃したのもこの時期からで、これにより経済が活性化するようになります。
また信長はスペインやポルトガルと行う南蛮貿易を奨励したり、キリスト教の布教を容認するといった政策を行っています。
信長が畿内(天下)でしたことをわかりやすく解説
信長が美濃国を攻略中の1565年、室町幕府の13代将軍・足利義輝が暗殺される事件が発生します。
これをきっかけに、義輝の弟にあたる足利義昭が諸大名に上洛を求めるようになります。
これを機に信長は畿内に勢力を伸ばしますが…
天下布武の朱印を使用する
信長が「天下布武」の朱印を使い始めたのは、美濃国の領主になった時期からだと言われています。この時期、「天下」とは日本全国を指しておらず、今の京都府南部、大阪府、奈良県を指す言葉でした。
衰えていた室町幕府を立て直すために、信長はこの朱印を使い始めたと言われています。
足利義昭と共に京都へ上洛する
1568年、信長は足利義昭と会見し、京都へ上洛を開始します。その過程で、抵抗する近江の六角氏や三好三人衆と戦い勝利。翌年には義昭のために二条城の築城を始めます。
室町幕府再興のために様々な動きを見せた信長ですが、こうした言動は義昭や幕府関係者から次第に警戒を持たれるようになりました。
※参考:室町幕府の始まりや不安定だった理由は?滅亡の原因も解説!
朝倉義景、浅井長政と戦う
1570年、信長は自身に従わない越前の朝倉義景との戦いを始めます。また、妹であるお市の方の嫁ぎ先である浅井長政が朝倉氏に味方した事で浅井家との戦いも始まり、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を撃破します。
浅井・朝倉両家との戦いはその後3年続き、最終的には信長が両家を滅ぼしています。
※参考:浅井長政の人物像とは?家紋や子孫についても解説!
比叡山延暦寺を焼き討ちする
比叡山は現在の京都府と滋賀県の境目にある山で、延暦寺は平安時代の僧侶・最澄が創設した天台宗の総本山です。当時の比叡山は浅井、朝倉家との関係が深く、信長にとっては目の上のたんこぶ的な存在でした。
1571年、信長は延暦寺の焼き討ちを実行します。
この時4000人以上が虐殺されたと言われてますが、誇張されすぎという説もあります。
足利義昭を京都から追放する(室町幕府の滅亡)
1573年、足利義昭は信長と断交し挙兵。背景には前年に武田信玄が上洛を開始していた事がありました。しかし信玄は翌年に死去し武田家は領内に撤退。義昭は槇島城に立て籠もりますが、信長はこれを攻め義昭を京都から追放します。
これによって室町幕府は滅亡し、信長は義昭にかわって「天下」である畿内を治める立場になりました。
信長が天下統一に向けてしたことをわかりやすく解説
室町幕府を滅ぼし畿内の支配者となった信長は、天下統一を目指して日本各地の勢力と戦い始めます。
本能寺の変で亡くなるまでの信長の歴史もまとめてみました。
長島、越前の一向一揆を鎮圧する
一向一揆とは、本願寺勢力が引き起こした宗教的な意味合いを持つ一揆のことで、伊勢長島(三重県)や越前(福井県)のものが有名です。信長は1574年に伊勢長島一向一揆を、1575年に越前の一向一揆を鎮圧します。
ただ一向一揆勢も強く、これらの戦いで戦死した織田方の武将も少なくありませんでした。
長篠の戦いで武田家を破る
1575年、信玄の跡を継いだ武田勝頼と織田・徳川連合軍が激突した長篠の戦いが行われます。信長は3000丁の鉄砲を用意し、三段撃ちという戦法で武田軍を破ったと言われてますが異説もあります。この戦いで信長の武威は高まる一方、武田家の勢力は一気に衰えることに。
そして1582年、信長の嫡男・信忠によって武田勝頼は滅ぼされます。
武田家が治めていた甲斐(山梨県)・信濃(長野県)は信長の領地となり、信長は天下統一まであと一歩という状態になるのでした。
安土城を築城する
1576年、信長は家臣の丹羽長秀らに命じて近江国(今の滋賀県)に安土城の築城を開始。1579年に完成します。安土城は地上6階、地下1階に及ぶ大規模な天守であったとされますが、本能寺の変の後に何らかの原因で焼失してしまいます。
※参考:安土城の場所や天守閣について解説。復元されない理由とは?
石山合戦で本願寺勢力との戦いを終わらせる
一向一揆の鎮圧後、信長と和議を結んでいた本願寺ですが、1576年に中国地方の毛利家と結んで再度挙兵します。毛利水軍との2度にわたる木津川口の戦いや紀州征伐、荒木村重の謀反を経て、1580年には正親町天皇の勅命により信長と本願寺勢力との間に講話が成立。
本願寺勢力は石山(大阪)から退去します。
本能寺の変:明智光秀に討たれる
1582年、毛利攻めを行っている秀吉を助けるために信長は出兵の準備を始めます。6月2日、そのために京都の本能寺に宿泊していた信長を明智光秀の軍が急襲します。
信長は応戦するも多勢に無勢であり寺に火を放ち自刃。49歳の生涯を閉じました。
まとめ
「織田信長がしたこと」というテーマで、信長が天下統一を目指すまでの歴史をわかりやすくまとめてみました。
信長の「したこと」は、戦いの連続であったと言っても過言ではありません。
弟や一族をはじめ、今川義元や朝倉義景、武田勝頼などの各地の有力大名をはじめ、比叡山延暦寺や一向一揆などの本願寺勢力とも向き合わざるを得ませんでした。
天下統一を目前にして志半ばで倒れた信長ですが、その意志は秀吉・家康に受け継がれ、250年以上の平和へと結びついていきます。
以下では彼の意志を継いだ家康の「したこと」をまとめていますので、宜しければご覧になってみて下さい。
※参考:徳川家康がしたことをわかりやすく解説!