忍者には色々な流派がありますが、その中で最も有名だと言える伊賀忍者
最近では映画『忍びの国』で取り上げられた事でも話題になりましたね。

では、伊賀忍者で有名な人物には、一体どのような人がいたのでしょうか。彼らの子孫がどうなったかも含め、詳しく見ていきましょう。あわせて、伊賀忍者の中で有名な「上忍三家」という人々についても解説していきます。

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伊賀忍者の中で最も有名な「上忍三家」とは?


伊賀忍者の中で有名な人物としては「上忍三家」と呼ばれる3名がまず挙げられます。

すなわち…

・服部半蔵
・百地丹波
・藤林長門守


この3人です。一人ずつ見ていきましょう。

服部半蔵


「上忍三家」と呼ばれる人々の中で、服部半蔵は最も有名な人物ではないでしょうか。
徳川家康に仕えた事で知られ、本能寺の変がおこった後、家康の警護をつとめ、京都から本拠地である三河国(今の愛知県東部)へ帰国した際に尽力した事で有名です。
いわゆる「神君伊賀越え」とよばれる出来事です。

実は、「服部半蔵」と呼ばれる人々は、戦国時代から江戸時代にかけて複数名存在しました。
家康に仕えた”服部半蔵”は、2代目の服部正成(まさなり/まさしげ)という人物です。この服部正成、「伊賀同心」と呼ばれる忍者を指揮した事で知られているのですが、本人は忍者ではなく、鎧兜を身にまとい、足軽たちを率いていた武士でした。

服部家で忍者だったのは、正成の父親で、”初代”服部半蔵の保長(やすなが)だったと言われています。保長の経歴は不透明な点が多く、一説では室町幕府の将軍に仕えており、その後家康の祖父である松平清康と意気投合し、その家臣になったとも言われています。

※参考:服部半蔵は忍者ではない?本能寺の変後の活躍や子孫も解説!

百地丹波(百地三太夫)


二人目に紹介するのは百地丹波(ももち たんば)です。
経歴については不明な点が多い人物なのですが、1570年代の伊賀国の南部において力を持っていた人物として知られています。1579年、織田信長の次男、信雄が伊賀国に攻め込んだ「第一次天正伊賀の乱」では伊賀側の指導者として活躍し、信雄率いる織田側を撃退しました。

しかし2年後、信長自らが兵を率いた「第二次天正伊賀の乱」が勃発。百地丹波は柏原城に立てこもって迎え撃ちますが、一般的にはここで討ち死にしたと言われています。一方で生存説も根強く、1595年、資料によっては1640年まで生きていたとも言われており、多くの謎が残る人物だと言えます。

映画『忍びの国』では、同姓の百地三太夫(ももち さんだゆう)という人物を落語家の立川談春さんが演じておられた事を覚えている方もいるかもしれません。しかし、百地三太夫という人物は、あくまで江戸時代に人気を集めた小説に登場する人物であり、実在する人物ではありません。恐らく、百地丹波を参考に創作されたのだと思われます。

江戸時代の小説において、百地三太夫は、安土桃山時代に名を馳せた盗賊・石川五右衛門や、真田十勇士の1人である霧隠才蔵の師匠として描かれる事があります。ちなみに石川五右衛門や霧隠才蔵も、伊賀忍者として小説や映画で描かれる事が少なからずありますね。

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藤林長門守


上忍三家の1人、藤林長門守(ふじばやし ながとのかみ)についてご存知の方は、忍者についてかなり詳しいのではないでしょうか。恥ずかしながら、私はこの記事を作成するまで知りませんでした・・・

藤林長門守が属する藤林家は、同じ上忍三家の服部氏が枝分かれして発生したと言われています。長門守の父親は「服部摂津守保信」という人物だとされており、何かしらの形で服部家との関係があったのかもしれません。ただし、この説には確証がある訳ではなさそうです。長門守本人の経歴についても不明瞭な点が多く、本名も「正保」「保豊」など、複数の説が存在します。

同じ「上忍三家」の百地家が伊賀国の内部を拠点としていたのに対し、藤林家は伊賀国の北部を基盤としていたと言われています。第二次天正伊賀の乱の際には、織田側について生き残ったという説もあれば、最後まで徹底的に戦った、中には百地丹波と同一人物だったという説もあり、上忍三家の中でも最も我々を混乱させてくれる人物だと言えるでしょう。

藤林家に残る『藤林家由緒書』という資料には、長門守が、武田信玄の軍師として知られる山本勘助に忍術を教えていた事があると記されていますが、これについても確証がある訳ではありません。

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上忍三家以外の、伊賀忍者で有名な人物は?


「上忍三家」と呼ばれる人々以外で、有名な伊賀忍者についても見ていきましょう。

・城戸弥左衛門(きど やざえもん)

火縄銃の使い手として知られる忍者です。織田信長の暗殺を2回も企てた事で知られています。「音羽ノ城戸(おとわの きど)」という名称でも知られています。

・伊賀崎道順(いがのさき どうじゅん)
伊勢の北畠氏や近江の六角氏、そして後に徳川家康に仕えたとされる伊賀忍者。身分は上忍ではなく中忍だったそうです。変装が得意だったとされ、六角氏に仕えていた時にこの技術を用いて城に忍び込んだ逸話が残されています。

・柘植清広(つげ きよひろ)
徳川家康に仕えた伊賀忍者で、服部半蔵と共に「神君伊賀越え」において家康を警護しました。関ヶ原の戦いや大坂の陣に従軍していた事でも知られています。

伊賀忍者の子孫は現代でもいるの?


伊賀忍者はその後、どうなったのでしょうか。子孫の有無についても気になりますよね。
上忍三家」のその後についてご紹介します。

服部半蔵の子孫


“2代目”服部半蔵の死後、服部家は長男の服部正就が3代目として継承します。しかしこの服部正就、父親が率いていた「伊賀同心」という忍者たちからは人気がなく、この点を責められ改易されてしまいます。
その後、服部家は3代目の弟である服部正重が継承。この4代目・服部正重の家系が、途中養子を挟みながらも現代まで存続しています。3代目・正就の家系も存続しており、分家も含めれば、服部半蔵の家系に連なる方々は日本各地にいるものと思われます。

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百地丹波の子孫


どのように最後の時を迎えたのか分からない百地丹波ですが、その家系は現代まで続いています。現代の当主は19代目の百地喜生さん。職業はなんとプロゲーマーなんだそうです!NHKの『歴史秘話ヒストリア』で取り上げられ、かなりの注目を集めていました。
余談ですが、百地丹波は海外でも知られており、アメリカ・ワシントンにある国際スパイ博物館において、百地丹波は「日本のスパイ代表」という立ち位置で紹介されています。

藤林長門守の子孫


藤林長門守の子孫として、藤林左武次保武という人物が挙げられます。
保武は1676年、『万川集海』(まんせんしゅうかい)と呼ばれる忍術書を執筆。自らの祖先が属する伊賀だけでなく、ライバルの甲賀忍者の忍術についても記されており、忍術に関する書物としては最も有名なものとされています。

※参考:甲賀忍者と伊賀忍者の違いとは?織田信長や江戸幕府との関係も解説!

まとめ


伊賀忍者で有名な人物やその子孫について、主に「上忍三家」と呼ばれる人々を中心にまとめてみました。

・服部半蔵
・百地丹波
・藤林長門守


いわゆる「上忍三家」と呼ばれてるこの人達ですが、この中で最も有名と思われる服部半蔵が忍者ではなく、忍者をまとめ上げる武士という立ち位置の人物です。

また、百地丹波の子孫の方がプロゲーマーというのは驚きでした。一般人にはできない芸で身を立てているといった点は、共通するものがあるのではと感じます。