貼り付けた画像_2017_01_20_12_14 戦国時代を語る上で、しばしば話題になる忍者。
その中で最も有名なのは、徳川家康に仕えた服部半蔵ではないでしょうか。

ただこの服部半蔵、実は忍者ではないと言われています。
一体どういう事なのでしょうか。

本能寺の変の後の服部半蔵の活躍やその子孫も含め、詳しく見ていきましょう。

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実は忍者ではない?服部半蔵とはどのような人物だったのか?


服部半蔵」とは忍者ではなく、戦国時代から江戸時代にかけて徳川家康やその縁戚である松平家に仕えた服部家の当主が名乗った名前の事です。この服部半蔵、なんと12代目まで続いているのですが、一般的によく知られているのは2代目にあたる服部半蔵正成という武将です。

この服部半蔵正成は、家康が遠江国に侵攻する時期から武将として彼に仕えたようで、1596年に亡くなるまで家康の勢力拡大を支えました。後述する本能寺の変の後に発生した「神君伊賀越え」を始め、天正壬午の乱や小田原征伐などで活躍している他、家康の長男である松平信康が切腹した際には介錯を担当したものの、主君の命は奪えないとして泣きながらその任務を務められなかったという逸話も残されています。
家康が関東に移封された後は江戸城の西側に屋敷を構えたらしく、江戸城の門の1つ現在は駅名にもなっている「半蔵門」の名前は、この正成の屋敷にあると言われています。

ただ「服部半蔵」が忍者だった時期もありました。正成の父親で初代服部半蔵にあたる服部保長は伊賀国(現在の三重県伊賀市)の出身の忍者だったようで、一時期は室町幕府の12代将軍にあたる足利義晴に仕えていたようです。
その後、家康の祖父にあたる松平清康が義晴に謁見する際、たまたま保長と知り合う機会があり、意気投合して清康に仕えたという記録が残っています。

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本能寺の変の後の服部半蔵の活躍について!


話を2代目服部半蔵正成に戻しましょう。

服部正成の活躍で特に有名なのは、1582年の本能寺の変の後でした。この時、服部正成は主君の徳川家康やその家臣あわせて35人で堺の町を見物していたのですが、そこで信長が亡くなった事を知ります。

この時、家康一行に対しては明智光秀の手勢が追撃を加えたり、あるいはこの機会に乗じた百姓らによる落ち武者狩りにあう可能性がありました。窮地に陥る家康一行でしたが、そこで活躍したのが服部正成だったのです。

家康一行は、本拠地の三河へ帰国するために、伊賀から伊勢を通り三河へ辿り着くルートを選ぶ事になるのですが、この時正成は、先祖ゆかりの地である伊賀の地元の勢力と交渉を行い、彼らに家康の警護を任せる事に成功。その結果、家康は無事本拠地である三河国へ帰国する事に成功し、正成はこうした伊賀の人々(伊賀同心、同心は「役人」という意味)を統率する役割を拝命する事となりました。

この本能寺の変の後で家康が取った行動を「神君伊賀越え」と呼び、同時に服部正成が活躍したエピソードとして今に伝わっています。実際には、正成以外にも京都の豪商である茶屋四郎次郎や伊勢商人の角屋七郎次郎、信長の家臣で家康一行の案内役を務めた長谷川秀一の存在も、この「伊賀越え」を語る上では外せない所ですけどね。

服部半蔵の子孫は桑名藩に仕えていた!


それでは、服部半蔵正成の子孫はその後、どうなったのでしょうか。

服部正成の死後、その跡を継いだのは長男の服部正就でした。正就は父から「服部半蔵」の名前を預かり、家康の弟で後に桑名藩主になる松平定勝の娘を妻にします。そして父が指揮していた伊賀同心を率いる事にもなるのです、正就は彼らを自分の家来のように扱ってしまいます。これが伊賀同心の人々の反発を呼び、正就はクビにされてしまいます。家名の復活を狙う正就は大阪夏の陣に従軍しますが、この時行方不明になってしまいました。

その跡を継いだのは、正就の弟で正成の次男にあたる服部正重でした。この正重も幕府の権力争いや仕官先のお家断絶に巻き込まれ何回もクビと再就職を繰り返しながら、最終的には兄の妻の実家である桑名藩の家老となり、1652年にその生涯を閉じました。その後の服部家は正重の家系が「大服部家」として、正就の息子である正辰の家系が「少服部家」として桑名藩内で存続する事となります。

その後、「服部半蔵」という名前は正重の家系を通して江戸時代を通して存続しますが、幕末の12代目当主である服部正義を最後に途絶えてしまいました。ただこの他にも、服部半蔵の子孫の中には松山藩や今治藩の家老を務めた者もおり、途中で養子を取りながらもその家名を今に至るまで伝えています。ただ服部半蔵の血筋を受け継ぐ方が現在でも居るかというと、正直何とも言えない所なのですが…

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この記事のまとめ


このページでは「服部半蔵」という通称を名乗った人物について、2代目にあたる服部半蔵正成を中心にご紹介しました。

服部正成は忍者ではなく、本能寺の変の後の「神君伊賀越え」を始め、数多くの戦いで活躍した武将でした。その子孫は桑名藩など様々な所で仕官したようですが、現在までその血筋が伝わっているかは何とも言えない所です。

また、「服部半蔵」というと忍者をイメージしがちですが、実際は初代服部半蔵である服部保長のみが忍者であり、2代目以降は忍者を組織する役割を果たしていました。ただ3代目の正就の振る舞いや戦国乱世の終焉によって、「服部半蔵」がこうした役割を担う事も無くなっていったようです。

なお、以下の記事では服部半蔵が率いた伊賀忍者とそのライバルの甲賀忍者の違いを解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:甲賀忍者と伊賀忍者の違いとは?織田信長や江戸幕府との関係も解説!