奈良の大仏を作った聖武天皇(しょうむてんのう)は、日本の歴史の中で、もっとも有名な天皇の1人です。
でも、いったいなぜ大仏を作ろう、なんて考えたのでしょう。
また、大仏の本当の大きさはどれくらいなのでしょう。
今回は、聖武天皇が大仏を作ったの理由や大仏の大きさ、そして大仏づくりに活躍した行基(ぎょうき)というお坊さんについて、小学生の方にも分かりやすく解説します。
いったいなぜ?聖武天皇が大仏を作った理由とは
聖武天皇が大仏を作った理由は、国の災いをしずめ、争いをやめさせるためだったと考えられています。
724年に天皇になった聖武天皇には、二つ大きな悩みがありました。
一つは皇族・貴族の争いごとが絶えなかったこと。
もう一つは、飢饉(ききん)や伝染病の流行です。
どうしたら皆が幸せに暮らせるのだろうか…と聖武天皇は悩みました。そして聖武天皇は、乱れた世の中を正すために仏教の力を借りようと思ったのです。そして741年、聖武天皇は全国に国分寺(こくぶんじ)や国分尼寺(こくぶんにじ)を作るように命じ、さらに743年には大仏(正確には「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」といいます)作りを命じたのです。
この大仏は、745年から実際の作業がはじめられました。そして7年後の752年、ついに大仏に魂を入れる儀式である開眼供養会(かいげんくようえ)を行い、757年に完成します。準備期間をふくめると、12年間に200万人もの人が大仏作りに関わった事になります。
じつはこんなに!大仏の大きさとは
それでは、聖武天皇が作った大仏の大きさは一体どれ位だったのでしょうか。
この大仏、高さは約15メートル、重さは約250トンと言われています。高さ15メートルというのは、ビルに置き換えると5階~6階に相当します。ちなみに鎌倉の大仏は約11メートルなので、奈良の大仏の方が約4メートルほど高いことになります。
また、250トンというのは重さの事なのですが、どれくらい重いのかあまり想像つきませんよね。平均的な大人の体重を仮に60キロとした場合、およそ4200人分の重さです。また、水の重さで考えてみると、だいたい25メートルプールの深さと幅1メートルと同じになります。
この大仏は、源平合戦や戦国時代の争いの中で2回焼け落ち、そのたびに作り直されてきました。いまの東大寺にある大仏の顔は、江戸時代に作り直されたものです。その大きさは14メートル70センチほどで、聖武天皇の時代とあまり変わっていない事がわかります。
※参照:源平合戦をわかりやすく解説。年表や登場する女性について!
大仏づくりはお任せあれ?僧・行基の活躍とは
ところで、聖武天皇の大仏作りに協力したお坊さんに行基(ぎょうき)という人がいます。
後に大仏作りの責任者となった行基ですが、はじめは朝廷から嫌われていました。一体なぜだったのでしょうか。
それは、行基が農民たちにまで仏教の教えを広めていたからです。
当時の仏教は「国を護る教え」と考えられており、民衆が信仰する対象とは見なされていませんでした。また、行基は橋や家をつくり、病人には薬と食べ物を与えるなど民衆を助ける様々な事業を行っていました。
このため行基はたいへんな人気者になるのですが、朝廷はこれも面白くありません。そこで、行基に「民衆を惑わすな!」と命じたりしていました。
ところが、大仏を作ると決まると朝廷は、行基を頼るようになります。なぜなら、大仏づくりにはたくさんの資材とそれを運んだり、組み立てたりする作業が必要だからです。
そして、この作業を進めるためには民衆の協力が必要でした。
そこで聖武天皇は、民衆の人気を集める行基に大仏作りの協力をお願いします。そして朝廷は行基を「大僧正(だいそうじょう)」という僧で最高の称号を与え、大仏づくりの責任者に指名しました。行基もこれにこたえ、弟子や民衆に協力を呼びかけます。このおかげで大仏づくりは順調に進みました。
その一方で、行基は749年に大仏完成を待たずに81歳で亡くなってしまうのですが…
この記事のまとめ
今回は、聖武天皇が大仏を作った理由や大仏の大きさ、そして行基というお坊さんの活躍について、小学生の方にも分かりやすくまとめてみました。
行基の人びとを助けたいという強い思いが、民衆を動かし、朝廷をも動かし、ついには大仏という途方もない作品を世に残すことになったのです。完成してから1200年以上たった今なお愛される大仏は、人類の長い歴史の中でも非常に珍しいものといえますね。
なお、以下の記事では聖武天皇を含めた古代日本の4人の天皇について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。
※参照:天智天皇、天武天皇、聖武天皇、桓武天皇の違いやしたことを解説
聖武天皇が大仏を作ったことを知りました。