天智天皇、天武天皇、聖武天皇、そして桓武天皇。
日本の歴史の古代に出てくる天皇という事で覚えている方も多いと思います。
ですが、この4人の天皇の違いについてご存知ですか?
今回は天智天皇、天武天皇、聖武天皇、桓武天皇の違いやそれぞれの天皇がしたことを簡単にわかりやすくご紹介します。
天智天皇とは?したことも簡単に解説!
中臣鎌足と共に、645年に蘇我氏を滅ぼした事で知られる天智天皇。即位前の中大兄皇子という名前の方が馴染みのある方も多いかもしれませんね。他にも百人一首の1番目に詠んだとされる和歌が掲載されていたり、水時計を作ったというエピソードでも知られている人物です。
そんな天智天皇がしたことを、以下でまとめてみました。
・大化の改新(公地公民制、班田収授法、国郡制度、租庸調の税制の制定)
・庚午年籍の制定
・白村江の戦い(百済を救うために、2万人以上の軍勢を朝鮮半島に派兵)
公地公民制とは、豪族が私有していた土地や人民を国家が直接支配する制度。班田収授法とは、こうした国が支配する土地を人々に分け与え、死後に国に返させる制度です。他にも全国を国と郡に分ける制度である国郡制度や、人々に納税や労役の義務などを定める租庸調といった税制が、大化の改新の主な内容でした。
また、班田収授法のための基本台帳として庚午年籍を制定したり、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後は、唐が攻めて来た場合に備えて「防人(さきもり)」と呼ばれる兵士を九州沿岸の防衛にあたらせました。
こうした天智天皇がしたことは、律令国家としての古代日本の出発点となるものでした、しかし、こうした制度が軌道に乗るまでには更にに数十年の年月がかかり、天智天皇の弟である天武天皇に引き継がれる事となるのです。
※参照:天智天皇ってどんな人?妻や百人一首の和歌について!
天武天皇とは?したことも簡単に解説!
天智天皇の弟であり、最初に「日本」という国号を用いた事でも知られる天武天皇。しかし、正確な生年月日が分かっていない事や、天智天皇より年上だったという説があるなど、その正確な人物像が謎に包まれている事でも知られている人物でもあります。
そんな天武天皇がしたことを、以下でまとめてみました。
・「古事記」「日本書紀」の編纂
・皇親政治の推進
・飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の制定
・八色の姓(やくさのかばね)の決定
天武天皇の時代に、「日本」という名称が初めて使用されたと言われています。そのため天武天皇は、この国の成り立ちを書物として残すために「古事記」「日本書紀」の編纂を行いました。また、天武天皇は以下の8つの姓を制定する事で、皇族の地位を高めると共に、中央貴族と地方豪族の区別を行いました。
①真人(まひと)
②朝臣(あそみ・あそん)
③宿禰(すくね)
④忌寸(いみき)
⑤道師(みちのし)
⑥臣(おみ)
⑦連(むらじ)
⑧稲置(いなぎ)
これは「八色の姓」と呼ばれています。天武天皇はこの制度を定めることで皇族の地位を高め、有力な豪族たちの力を抑えて、皇親政治を推し進めました。
政権内に大臣をおかず、従来であれば有力豪族が就いていた重要ポストに自分の皇子を配して、天皇中心の皇族による支配体制を作りました。その結果、天智天皇によって推進された政策はしっかり根を下ろし、天皇を中心とした律令国家体制は強化されていきました。
※参照:天武天皇ってどんな人物?行った政治や持統天皇との関係は?
聖武天皇とは?したことも簡単に解説!
奈良の東大寺の大仏をつくった事で知られる聖武天皇。天武天皇のひ孫にあたる人物です。天智天皇や天武天皇のしたことによって、当時の日本では基本的な政治体制は築かれていました。しかし、聖武天皇の時代になると飢饉や疫病の発生、貴族の内乱が相次いだ事で、政治や民衆の暮らしは不安定な状態が続いていました。
こうした状況の中で、聖武天皇がしたことを以下でまとめてみました。
・東大寺大仏の造営
・国分寺と国分尼寺の設置
・墾田永年私財法の制定
仏教の教えを積極的に取り入れた国造りを進めた聖武天皇。まず、奈良の東大寺に苦しい生活を送る民衆の心の拠り所となる巨大な大仏を造影して、様々な災いが鎮まる事を祈りました。また、日本の各地に国分寺と国分尼寺を設置し、仏教の力によって自然災害や内乱など社会不安を鎮めようとしました。
その一方で、聖武天皇は公地公民制度の刷新も行います。従来の制度では、土地をいくら開墾しても最終的には国に返す必要があったため、農民のやる気が起きない状態が続いていました。このため聖武天皇は743年に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を制定して、開墾した土地を自分のものにする事を認めたのです。
聖武天皇のしたことによって、これまで中央の特権階級のものであった仏教が日本全国に広まっていきました。また墾田永年私財法によって広い土地を所有する貴族が生まれた事は、結果として天皇の中央集権的な力を弱める事へと繋がっていきました。
※参照:聖武天皇が大仏を作った理由は?大きさや行基がした事は?
桓武天皇とは?したことも簡単に解説!
「鳴くよウグイス平安京」という有名な語呂合わせがあります。これは桓武天皇が794年に、都を平安京に移した事を示した言葉です。これまでの律令制が実情に合わなくなってきた平安時代初期、桓武天皇は様々な改革を行ってその再建に努める事となります。
以下で、桓武天皇がしたことを具体的に見ていきましょう。
・都の遷都
・蝦夷征伐
・健児制の設置
・勘解由使の設置
・新仏教の保護
まず、桓武天皇は784年に都を平城京から長岡京へ、その10年後の794年は平安京へ都を移しています。また「健児制」と呼ばれる、役人の子息や武芸に秀でた百姓を集めて武芸集団を結成したり、国司の不正を取り締まり律令政治が正しく行われているかをチェックする「勘解由使」を設置する事で、これまでの律令政治に変わる新しいタイプの政治を行いました。
これ以外には、東北地方を中心に繁栄していた蝦夷を討伐するための軍勢を派遣したり、最澄や空海に代表される新しいタイプの仏教を保護した事も桓武天皇がしたこととして挙げられます。しかし、2度に渡る都の遷都や蝦夷討伐は百姓を苦しめた面もあり、また健児制も時が経つにつれ効果が発揮されない状態へとなっていきます。
※参照:桓武天皇ってどんな人?年表や行った政治をわかりやすく解説!
この記事のまとめ
天智天皇、天武天皇、聖武天皇、桓武天皇の違いやしたことを簡単にご紹介しました。
飛鳥時代、天智天皇は大化の改新をおこない天皇を中心とした律令体制による国造りを進め、その弟の天武天皇に引き継がれ律令体制は強化されていきました。そして奈良時代になると、聖武天皇によって国中に仏教が広められ、東大寺大仏が造営されます。
また、度重なる遷都によって定まらなかった都は、桓武天皇による平安京への遷都ののち、1000年の都として続く事になりました。律令政治の立て直しを行った桓武天皇ですが思うようにいかない事も多々あり、後の貴族や武士の世の誕生に大きな影響を及ぼしていきます。