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国の治世を実際に遂行した女帝として有名な持統天皇
日本で歴史を学んだ方なら、一度は必ず聞いたことのある名前でしょう。
また、持統天皇の詠んだ和歌は、小倉百人一首にも収められています。

しかし、その人物像などについては、あまりご存知ない方も多いかもしれません。
実は、歴史的に見ると、墓所や政策などとても特徴的な女性天皇だったのです。

そこで今回は、百人一首にも収められた持統天皇の詠んだ和歌の意味を紐解きながら、そこにみえる持統天皇のプロフィールに迫っていきたいと思います。

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持統天皇ってどんな人?その詳細なプロフィールを解説


まずは持統天皇がどんな人だったのか、その詳細なプロフィールをご紹介します。

持統天皇は、日本の第41代天皇です。父親は第34代天皇の天智天皇(中大兄皇子)であり、また第40代天皇の天武天皇(大海人皇子)の皇后でもありました。

13歳のときに、父親の弟でもある大海人皇子(天武天皇)に嫁ぎます。そして、父親の死後、異母兄でもある第39代天皇の弘文天皇と、夫の天武天皇が争うことになります。これは672年のことで、世にいう「壬申の乱」です。この戦いで勝利した大海人皇子は、天武天皇となり、持統天皇は皇后となりました。

天武天皇と持統天皇は、とても仲睦まじい夫婦だったようで、持統天皇が病に倒れると、天武天皇は祈願のために、薬師寺を建立し、100人の僧を用意します。その後、今度は天武天皇が病に倒れた時に、持統天皇は100人の僧を用意して回復を願ったといいいます。
また持統天皇は、異母兄と夫の争いの時にも、終始夫を支え、夫である天武天皇の治世の際には、助言や助力を惜しまず、補佐という立場を越えないよう支え続けたそうです。

※参照:天武天皇ってどんな人物?行った政治や持統天皇との関係は?

そして、686年に天武天皇が崩御すると、我が子であり皇太子でもある草壁皇子を継承者として広く認知させます。しかし、このときに持統天皇の甥であり、亡き夫の子でもあった大津皇子の謀反が起きます。
けれど、それを察知した持統天皇は大津皇子を処刑、草壁皇子の継承を盤石なものとさせるのですが、この草壁皇子が急な病に倒れ、そのまま689年に病死してしまいます。

皇位継承者たちがその継承を争い混迷を極める世情の中、持統天皇は自らの孫であり、草壁皇子の息子・軽皇子を継承者にしようと考えます。それでも、当時の軽皇子は7歳という幼子でした。
そのため、軽皇子が成長するまで、持統天皇が即位することとなったのです。

そして、690年、第41代天皇として持統天皇が即位。即位後すぐに、天武天皇在位中より編纂を始めていた法典「飛鳥浄御原令」を施行し、同時に「藤原京」の造営も進めます。さらには戸籍を作り、税収などの仕組みをより明確なものとします。

※参照:藤原京、平城京、長岡京、平城京の違いとは?場所や特徴を解説!

そして694年には、日本で初めて造られた本格的な大規模にわたる京、藤原京へと遷都。その2年後には孫である軽皇子に譲位し、自身は初の太上天皇(上皇)となります。その後もその手腕の有能さは健在で、孫の軽皇子が文武天皇となってからも、その治世を並び支えたといいます。さらに701年には、藤原不比等を用いて日本史上初めての律令「大宝律令」を完成させます。

しかし、持統天皇はその翌年、702年に12月に病を発症。
そのわずか9日後に、58歳で崩御してしまうのです。
その後は、火葬され、天武天皇の墓に合葬されました。

因みに、天皇の火葬は、この時が初めてのことだったそうです。
また、前天皇のお墓に続いて天皇が合葬されることもないそうで、合葬は、持統天皇の遺言だったのではないか、という説があります。

本当は天武天皇と持統天皇は不仲だったのでは、という説もありますが、わざわざ墓所も同じにするくらいですから、仲睦まじい夫婦であったという通説が正しかった、と個人的には思いたいのですが・・・

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持統天皇の墓所はどのようなものだったのか


続いては、持統天皇の墓所に関して解説していきたいと思います。

前項・持統天皇のプロフィールでもご説明した通り、持統天皇は夫である天武天皇と合葬されています。そのため、俗には天武・持統天皇陵と呼ばれる「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」が、持統天皇の陵として治定されています。

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この「檜隈大内陵」は、現在、「野口王墓」と称され、奈良県高市氏郡明日香村に存在しています。現在、この野口王墓の墳丘は、東西約58m、南北径45m、高さは9mという円墳状となっていますが、本来は八角形の陵であり、墳丘は五段、その周りを大きな樹木に覆われた森のような形状の墳丘であったそうです。また、墳丘の周りには石段が廻らされ、南に面して石の門が備えられていたのだとか。

因みに御陵内部は、前後の二室で構成されており、前室は天上から壁などのすべてがメノウ製。後室には、金銅製の妻戸があり、その飾りはすべて金でできたもの。それ以外の壁や天井は、前室同様、メノウ製で赤く塗られていたと、文献には残されています。

しかし、この「檜隈大内陵」に関してここまで詳細な記録が残っているのには、とある1つの理由があります。実は、1235年に、この「檜隈大内陵」は、盗掘に遭っていたのです。その際、多数の副葬品が盗まれ、当時の公家たちは大騒ぎとなり、現地の検分のために勅使が派遣されました。そして、そのときの勅使が記した検分書「阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)」が記録として残されていました。

さらにいえば、この「阿不幾乃山陵記」が、1880年に高山寺から発見されたため、「檜隈大内陵」が天武・持統天皇陵だと治定されることにもなりました。実は、それ以前までは、この「檜隈大内陵」は、二人の孫でもある文武天皇陵だとされていたのです。盗掘に遭ったがゆえに詳細で明確な記録が残っていたというのは、持統天皇にとってはなんとも複雑な心境でしょう。

蛇足にはなりますが、持統天皇の不運はこれで終わりません。実は、盗掘された際、持統天皇の遺骨が納められていた銀製の骨蔵器も盗賊に奪われてしまいました。そして、骨蔵器に納められていた遺骨などは、無残にも路上などに捨てられてしまったそうで、その行方などは不明となってしまったというのです。

有能と評判で、日本史上初の試みの数々を為した持統天皇。
その生を終えた後の待遇が、これほど無残なものというのは、とても悲しいものです。

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持統天皇が詠んだ小倉百人一首・第2番の和歌の意味を解説


それでは最後に、持統天皇が詠んだ百人一首の和歌を解説していきます。

春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山


この和歌は、百人一首・第2番に収められています。
因みに、第1番の和歌は、持統天皇の父である天智天皇の和歌です。

そして、持統天皇のこちらの和歌は、他にも、「新古今和歌集」にも収められており、原歌でもある「春過ぎて夏来るたるらし白妙の衣ほしたり天のかぐ山」は、万葉集にも収められています。夏の和歌であり、夏をテーマとした和歌には、必ずと言っていいほど紹介される機会も多く、そのためにとても有名な和歌でもあります。


それでは早速、こちらの和歌を簡単な現代語に訳して、その意味を紐解いてみました。

いつの間にやら春は過ぎ去り、夏が来ていたようです。その証に、夏の風物でもある白い衣を干して乾かすという景色が、天香具山にも見えますよ


天香具山(あまのかぐやま)は、奈良県橿原市(かしはらし)にある山の名です。
当時、天武天皇や持統天皇たちは奈良の飛鳥に住んでおり、持統天皇の都である藤原京も、この橿原市と明日香村にかかる地域にありました。


しかし、この天香具山ですが、その名に「天」という尊称が入る時点で、当時、とても神聖な場所であったということが分かります。「伊予国風土記」によれば、天香具山は、天から降りてきた山であったそうです。そのような場所に、洗濯物など干しているというのは、先ずあり得ない景色であり、見たままを和歌に歌い込んだとは考えることができない情景です。


そのような点から、とある面白い説があります。
その説は、白い衣とは、あの「天の羽衣伝承」に繋がりがあるというものです。

「天の羽衣伝承」は、沐浴中の天女・豊受大神(とようけのおおかみ)から老爺が羽衣を奪い、天に帰ることができなくなってしまった豊受大神は、それを助けてくれた老爺を、羽衣を奪った張本人だと知らずに豊かにしてやるも、結局は羽衣を奪い返して天に帰るというものです。
そして、そこから推察すると、持統天皇は、老爺のように豊受大神の干されている羽衣を奪って身動きできなくさせて、豊かになる、つまり権力を得ようとしていることが暗示されているもの、という説です。


しかしながら個人的には、もう一つの説の方を推したいところです。その説には、当時、政治の流れを季節の移り変わりになぞらえるという思想があったという前置きがあります。

天から降りてきた神聖な山である天香具山。
その天香具山は、ある意味で天意、すなわち、天皇の威光を示す場所であり、そこにたなびく白い衣というのは、より天皇の権威を盤石と示すものであったと。そして、厳しく不安定な世であった持統天皇の父である天智天皇の代を「冬」とし、変革期を迎えた夫の天武天皇の時代を「春」とする。さらに、持統天皇の代を「夏」とし、やっとここにきて天皇の権威を世に知らしめることができた、と歌っているという説です。


勿論、他にも色々な説が唱えられています。
しかし、どの諸説にしても、目の前の情景を淡々と歌った和歌ではないというのはが、共通認識のようです。

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この記事のまとめ


持統天皇がどんな人だったのかを、その墓所や百人一首の和歌と共にご紹介しました。

日本史上では、女性天皇は持統天皇以外にも存在します。しかし、持統天皇のように、実際に治世を遂行したと明確に裏付けのある天皇は存在しません。そのことから見ても、持統天皇は、女帝としてかなり功績を残した天皇であることは、間違いありません。

持統天皇がその生涯を通して行ってきた事は、騒乱を起こすのではなく、法や律を定め、戸籍を作るなどの平定を求める治世です。だからこそ、そんな持統天皇が詠んだ和歌は、なかなかに意味深長な作品だと感じます。

一体、どんな想いを込めてどのような意味を表し、その和歌を詠んだのか。持統天皇のプロフィールやその生涯の後である墓所を踏まえ、独自の解釈を探してみてはいかがでしょうか。


なお、以下の記事では持統天皇の父親にあたる天智天皇が読んだ百人一首の和歌について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:天智天皇ってどんな人?妻や百人一首の和歌について!