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『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じた事で知られる天武天皇
彼が行った政治は、その後の日本の歴史に様々な影響を与えた事で知られています。

今回は、天武天皇がどんな人物だったのかを、行った政治や次の天皇である持統天皇との関係を交えながらご紹介します。

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天武天皇とは?一体どのような人物だったのか?


天武天皇とはどのような人物だったのでしょうか。
以下で簡単にご紹介します。

天武天皇は、『大化の改新』で有名な中大兄皇子こと天智天皇の弟で、天皇に即位する前の名前は、大海人皇子と名乗っていました。ちなみに、天武天皇と言う名前は『追号』という崩御した後につけられる名前なので、生前はこのようには名乗っていません。

兄の天智天皇は672年に崩御する際、息子の大友皇子を次の天皇にする決断を下します。これに命の危険を感じた天武天皇は出家して吉野に移りますが、その6ヵ月後に美濃(現在の岐阜県)で挙兵し、大友皇子の軍と戦って勝利して即位しました。
この戦いは『壬申の乱』と呼ばれています。

その一方で、正確な生年月日がわからないという謎が残されているのも、天武天皇の大きな特徴です。当時の人物の生年月日が伝わっていない事は珍しくなく、これは天皇でも例外ではありませんでした。一説では、天智天皇は兄の天智天皇より年上だったのでは…とも言われており、この点も現在に至るまで多くの学者の研究対象となっています。

また、天武天皇は宗教や超自然的力への関心が強く、日本書紀によると「天文遁甲」という占いを自ら行ったと言われています。和歌にも通じており、額田王と交わした恋の歌がよく知られている他、博打やなぞなぞといった庶民的な趣味を持っていたという一面もあったそうです。

天武天皇が行った政治はどのようなものだったのか?


続いて、天武天皇がどのような政治を行ったのかを見ていきましょう。

天武天皇の政治の特徴として、要職を大臣ではなく皇族に就かせたという点が挙げられます。こうした政治システムを「皇親政治」と呼ぶ事がありますが、実際の権力を握っていたのは天武天皇個人でした。日本全体を見ても、天皇個人に権力が集まっていた政治体制は珍しく、この点に天武天皇の政治の大きな特色があると言えます。

具体的な政策としては、まず都を大津(現在の滋賀県大津市)から飛鳥(現在の奈良県明日香村)に移した点や、豪族の私有民である『部曲』を廃止し、姓を8つに分けて豪族・氏族を単位とする『八色の姓』を制定する事によって氏姓制度の再編を行った点が挙げられます。
また、日本最初の律令と言われる『飛鳥浄御原令』を策定した事は、701年に制定された大宝律令に大きな影響を与えました。

また天武天皇は、数多くの文化面の政策も行っています。稗田阿礼に『古事記』の編纂を、自らの息子である舎人親王に『日本書紀』の編纂を命じさせた事は有名ですが、現在の勤労感謝の日の元となった『新嘗祭』を制定したのも天武天皇だと言われています。他にも国号を『日本』と制定したのも天武天皇だと言われており、こうした点からも彼が行った政治が、後の日本の歴史に大きな影響を与えた事も分かります。

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天武天皇と持統天皇の関係とは?


こうした天武天皇の事跡の中には、『古事記』『日本書紀』の編纂など、その生前には完成しなかったものも多く見られます。こうした事業は次の持統天皇に受け継がれますが、ではこの二人は一体どのような関係だったのでしょうか。

天武天皇にとって、持統天皇は皇后にあたります。持統天皇の父親は天武天皇の兄にあたる天智天皇なので、この2人は叔父と甥の関係にあるとも言えます。

この2人が結婚したのは657年でした。年齢は持統天皇が13歳、天武天皇の年齢は正確には分かっていないのですが20代半ばだと思われています。ちなみに天智天皇は持統天皇以外にも、なんと娘3人を天武天皇の妻にしています。今の常識から考えるとビックリですよね…。その後、持統天皇は662年に草壁皇子を産んでおり、この事から天武天皇の妻の中で最も力がある女性になったと言われています。

気になる天武天皇と持統天皇の夫婦仲ですが、680年に持統天皇が病気にかかった時、天武天皇は薬師寺を建立する事で妻の病の回復を祈ったと言うエピソードが残されています。また同じ年に天武天皇が病気になった時には、今度は持統天皇が僧を100人も得度させた事で天武天皇の病が回復したという記載も残されています。天武天皇は686年に亡くなりますが、やがてこの夫婦は同じ野口王墓(のぐちのおうのはか)に葬られています。こうした事実からは、良好な夫婦仲がイメージ出来るのではないでしょうか。

その一方で、この二人の仲には数多くの疑問点も示されています。天武天皇と持統天皇による相聞歌が残されていない点や、天武天皇の皇子の中で最も優秀とされている大津皇子を死に追いやった点、百人一首の歌「天の香具山」が夫からの政権交代を表す説など、この二人の関係が良かった事を疑わせる逸話も少なからず残されています。

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この記事のまとめ


今回は天武天皇がどんな人物だったのかを、行った政治や持統天皇との関係性を交えてご紹介しました。

天智天皇とは違ったカリスマ性を持った天武天皇が行ったことは、古代日本のあり方そのもので、明治からの近代日本に大きく影響を与えたものなのかが、よく分かると思います。
生年月日や持統天皇との夫婦仲など、現在もその真偽が議論される事の多い天武天皇の生涯ですが、自分なりの考えを想像しながらその真相を考えるのも、歴史を楽しむ上での1つの楽しみではないでしょうか。


なお、以下の記事では天武天皇を含めた古代日本の代表的な4人の天皇について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:天智天皇、天武天皇、聖武天皇、桓武天皇の違いやしたことを解説