%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_28_13_57 松平信康と言えば、父・家康に切腹を命じられその生涯を閉じた事で知られる武将です。

従来では織田信長の強い関与があったとされたこの出来事。
実際はどうだったのでしょうか?

今回は、信康の切腹の真相を、信長の関与という面から分かりやすくまとめてみました。

あわせて信康の評価や、子供および子孫の有無についてもご紹介します。

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松平信康の切腹の真相とは?信長は関わっていなかった?


松平信康の切腹の真相ですが、信長の命令によるものだったのか、それとも家康と信康の親子間の対立のいずれだったのかを考える事になります。

それぞれの説を詳しく見ていきましょう。

織田信長の命令による説


この説の場合、信康の正室で信長の娘である徳姫が父に対して、夫と姑である築山殿に関する「十二箇条の不行状」を出した事が事の発端だと言われています。この書状は信康の暴虐な振る舞いが書かれていた他、「築山殿が(敵方の)武田家と内通している」という内容もあり、これを問題視した信長が家康に築山殿・信康親子を処罰するよう要求。家康もやむを得ずこれに従った…というのが通説でした。

これ以外には、信長が嫡男、信忠と比べて有能だった信康を恐れた為にその切腹を要求しという説や、家康の忠義を試すために信長が理不尽な欲求を突き付けたという説もあります。
実際、この頃から信長と家康の同盟は対等な関係から従属的な関係に変わっており、こうした織田ー徳川間の関係の変化が、信康の切腹の事件に現れた見方も少なからず見られます。

※参照:瀬名姫(築山殿)の生涯を年表で解説。子供やその性格とは?

家康-信康の親子関係が悪化したという説


その一方で、信長は松平信康の切腹に直接的には関与していないという見方もあります。そもそも同盟者の忠義を試したり、その息子を恐れただけで切腹を要求するというのは、あまりにも考えにくい説です。また、家康から遠ざけられていた当時の築山殿に、武田家と交渉できるだけの力があったかも疑問が持たれています。

ここで考えられるのは、家康と信康の親子関係が悪化していたという見方です。その背景としては、当時の徳川家中が家康に従って多くの手柄を立てていた浜松城派と、 その後方支援や負傷者の面倒を見ていた岡崎城派に分かれており、岡崎城主を務めていた信康が彼らに擁立され、家康を倒す予兆があった為とも言われています。

家康としては、息子に反乱を起こされてはたまったものではありません。このため、信康の処罰を同盟者であり、そして息子の嫁でもある信長の意向を踏まえ、「思うままにせよ」と言われた事が、「信長が松平信康の切腹を要求した」という説に発展したという見方もあります。

※参照:三英傑の家紋について。信長、秀吉、家康が使った家紋とは?

松平信康の評価は勇猛だがそれ故の欠点も?


松平信康は、一般的には勇猛な武将だったと評価されています。1575年の長篠の戦いでは徳川家の一手の大将を務めてた他、その2年後の横須賀の戦いでは殿を務め、武田家相手に奮闘したという記録が残っています。

こうした信康の勇猛さを高く評価する家臣も多かったようで、その切腹の際、介錯を努める筈だった服部半蔵は涙して刀を振り下ろせなかったと言われています。信康の傅役を務めた平岩親吉は自分の首を引き換えにその助命を嘆願してる程ですし、その切腹後には殉死者も現れたと言われています。

その一方で、信康には人の意見を聞かないという悪い評価もあります。江戸時代中期に書かれた『寛政重修諸家譜』という資料によると、信康は自分を諌めた家老を追放した事があったと言われています。また江戸初期に書かれた『当代記』という資料にも、信康は家臣に対して厳しい面があったと言われています。

こうした記述には信康を貶めるものも少なくないと言われており、信憑性については疑問は残る所です。ただ、火のないところに煙は立たないと言いますし、少なくとも血気にはやる若殿、という評価をしていた家臣は多かったのかな?と思ってしまいます。

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松平信康の子供や子孫はその後、どうなったのか?


ところで、松平信康には子供や子孫に当たる人はいたのでしょうか。

実は信康には二人の娘がいました。正室で織田信長の娘・徳姫(五徳)との間に生まれた登久姫熊姫です。二人とも父・信康の切腹後、母・徳姫も美濃へ呼び戻され帰ってしまったため祖父の徳川家康に育てられました。

姉の登久姫は豊臣秀吉の仲介で小笠原家当主・小笠原秀政と結婚して六男二女をもうけ、妹・熊姫も徳川家の家臣で本多忠勝の嫡男・本多忠政と結婚し三男二女を授かりました。登久姫の男児は、のちに松本藩や吉田藩の藩主となっていたり、娘も肥後熊本藩や阿波徳島藩などに嫁いでいます。

また熊姫の息子も播磨姫路新田藩主や陸奥白河藩主となったり、娘も小倉藩主に嫁いだりした形跡があります。詳細については不明ですが、信康の血を引く子孫の方が生きていても不思議は無さそうですね。

これ以外には、松平信康は側室との間に萬千代という男子がいたと言われています。この萬千代は後に松平家長と名乗り、清和院宮(せいわいんのみや)を継承したと言われています。この家系はその後旗本になった一方で葵紋の使用を許されており、3万石近い石高を持っていたと言われています。

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この記事のまとめ


松平信康の切腹の真相やその評価、子供や子孫の有無についてご紹介しました。

夫婦問題や嫁姑問題が原因であの切腹事件が起きたとされていますが、実際はいろんな思惑が複雑に絡み合っていて起こるべくして起きた事件だったのかもしれません。

しかし、信康がその脅威を恐れて切腹を命じた信長や家康にその死を嘆かせるほど評価の高かった武将でもあったとは驚きです!家臣たちに慕われていたのも納得できますね。

また正室との間には女児しか生まれなかった信康。しかしさすが徳川家、娘たちやその孫たちもそれぞれ大名に嫁いだり藩主になったりして血筋は残していったようです。現在に至るまでの子孫が不明なのは残念ですね…