%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_30
武将のシンボル・家紋

織田信長の木瓜紋や豊臣秀吉の五三桐紋、徳川家康の葵紋は有名で、家紋を見ればすぐに人物が思い浮かぶ方も少なくないと思います。

今回は、戦国時代の三英傑である信長・秀吉・家康の家紋をまとめてご紹介します。
スポンサードリンク

織田信長は7つも家紋を持っていた!


まずは織田信長の家紋について見ていきましょう。

信長の家紋といえば、こちらの「木瓜紋」が有名です。

%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_25
この木瓜紋は瓜の断面、あるいは鳥の巣をデザイン化したものといわれています。信長が使っている「五瓜に唐花」と呼ばれるデザインはは断面が五分割されていて、真ん中に唐花という中国から渡来した花の模様があしらわれています。この家紋は織田家の主家筋に当たる尾張国の守護・斯波氏、または朝倉氏から信長の父・信秀が賜ったといわれています。

木瓜紋そのものは、もとは平安時代の貴族が牛車などにあしらった紋様(これを「有職紋様」といいます)で、戦国時代には朝倉義景や滝川一益が使っていました。断面のデザインは使う武将によってさまざまなバリエーションがあり、信長が使ったものを特に「織田木瓜」と呼びます。また、京都・八坂神社をはじめ、スサノオ・牛頭天王を祭神とする全国の神社の多くで神紋に使われています。


また、信長は木瓜紋以外にも、以下の6つの家紋を使用していました。


・揚羽蝶
%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_25
もともとは平氏が使っていた家紋。
揚羽蝶紋をあしらった信長の陣羽織が現存しています。



・永楽通宝
%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_25
信長が旗印に使っていたと言われています。



・二つ引両
%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_26
もともとは足利家の家紋です。
信長が将軍、足利義昭からもらったものと言われています。



・五三桐
%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_26
後醍醐天皇が足利家に与え、その後足利義昭が信長に与えた家紋です。
豊臣秀吉が使っている事でも知られています。



・十六葉菊
%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_27
もともと皇室が使用していた家紋を、信長が使用を許可されたのです。



・無文字
%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_27

禅の世界観である「無」を草書体にした家紋です。
信長は禅に帰依していたと言われています。

豊臣秀吉は「桐紋」を色々とアレンジしていた!?


豊臣秀吉の家紋は「桐紋」と呼ばれるものです。この桐紋ですが、桐の葉の上に花の付いた「花序(かじょ)」が3本立っているデザインで、花序に付く花の個数によって分類されます。

そして秀吉が使った桐紋には、「五三桐紋」と「五七桐紋」があります。上の花序に付く花の個数が左から数えて3個-5個-3個のものを「五三桐」、そして下の5個-7個-5個のものを「五七桐」と呼びます。

%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_26
五三桐紋

%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_28
五七桐紋

信長のところでも紹介したように、五三桐紋は後醍醐天皇→足利将軍家→織田信長と下賜されました。同じように、信長から秀吉へ下賜されたものと考えられます。一方、五七桐紋は豊臣姓を名乗るようになったとき、当時の後陽成天皇から与えられたものです。

スポンサードリンク


秀吉も信長に従い、家臣に自分の家紋を下賜していますが、信長のように「そのまま」与えることはしていません。下賜用に五七桐を簡略化した、以下の「太閤桐」という家紋をつくりだしたのです。これは、権威づけとしての「家紋の下賜」は踏襲したいけれど、自分の家紋の完全コピーをあげると、家紋が軽々しくなってしまうから替わりのものを…という考えの表れなのでしょう。

%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_29
ところで、「信長から五三桐紋をもらうまでの秀吉は、家紋を持っていなかったの?」という疑問が残りますよね。木下藤吉郎と名乗っていたころには、こちらの「立ち沢瀉(おもだか)紋」を使っていました。

%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_29
この紋は妻・ねねの実家である杉下家の家紋でもあります。秀吉の出自ははっきりせず、家紋を持つような家の出ではなかったと思われます。杉下家の家紋を借りたのかもしれません。

徳川家康の葵紋は将軍家で独占!だけど例外も!?


最後に、徳川家康の家紋である「葵紋」についてご紹介します。

%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_30
こちらの円の中に葵の葉を三つ配した「三つ葵紋」は『水戸黄門』をはじめ、江戸時代を舞台にした時代劇ではおなじみの家紋ですね。

徳川家康は「徳川」を名乗る前、松平家康と称していました。松平氏は三河に数多くいた豪族のひとつです。三河の豪族たちには京都・上賀茂神社の神官・加茂氏と関係が深い者が多く、彼らは上賀茂神社の神紋である葵紋を使うようになりました。上賀茂神社の神紋はフタバアオイです。松平氏の紋は、丸の中に葵の葉と茎を配したものでした。

その後、家康が徳川姓を名乗り、豊臣家を倒して政権を奪うと、朝廷は家康に桐紋を与えようとします。しかし、家康は、信長や秀吉も受けた桐紋を受けようとしませんでした。

スポンサードリンク


将軍になった家康は、丸の中に葵の葉を三つ配した「三つ葵紋」を使うようになります。その上、葵の葉を将軍家以外が家紋に使うことを禁じました。逆に、天皇家とそこに連なる者だけが使えた桐紋や菊紋を自由に使えるようにしたのです。家紋の権威を完全にすり替えてしまったわけですね。

将軍家と御三家以外、それがたとえ“身内”の松平家であっても、葵を家紋に使うことを禁じた家康ですが、例外があります。家康の家臣で「徳川四天王」の一人・本多忠勝です。徳川家きっての古参家臣である本多家ですが、本多家もまた三河の豪族であり、上賀茂神社の神官を祖とする家柄でした。奏した経緯もあり、家康もさすがに禁止を強要することができなかったようで、本多家は根元から三本の茎が立ち分かれ、それぞれに葵の葉がついた「本多葵」を用いました。

%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_27_19_31

この記事のまとめ


三英傑の家紋というテーマで、信長、秀吉、家康の家紋についてご紹介しました。

この三人の家紋を追っていくと、朝廷や自分の家臣との関係が見えておもしろいですね。家紋から見る限り、信長が古い権威に比較的従順であるのに対し、秀吉は家紋を家臣に与える事で政権をより強固にしようとしたのかもしれません。

また家康の家紋からは、朝廷の権威を完全に江戸幕府の格下に置こうとする姿勢がうかがえます。家康や将軍家が「家紋」を使って家の格を厳密に決め、支配体制に利用したからこそ、江戸時代は幕末までは幕府を脅かすような大きな戦乱もなく、安定したのかもしれませんね。

※参照:徳川家と松平家の関係や家紋の違いについて。改名の理由は?