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下剋上の戦国の世にあって守護大名としての立場を守りつつ、周囲の戦国大名と渡り合った今川氏を支えた女性。それが今川義元の母、寿桂尼です。

女性の身でありながら一族を守るため家督を継いだ井伊直虎など、この時代に活躍した女性は他にもいます。その中でも寿桂尼は夫とわが子を政治的・外交的に支えた事績が当時の文書からもわかるという意味で特別な存在でしょう。

寿桂尼がどんな人だったのか、何をした人物なのかを、年表と共にご紹介します。

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今川義元の母・寿桂尼とはどんな人だったのか?


今川義元の母親として知られる寿桂尼は、藤原氏の一族である中御門宣胤(なかみかどのぶたね)という人物の娘として産まれました。生年は未詳ですが、公家出身の彼女が武家である今川家の氏親に嫁いだのは1508年だという事を考えると、1490年頃が産まれた年と考えてもいいでしょう。

当時の公家は、自らの荘園からの収入を守るために、武家で有力な大名との結びつきを求めていました。彼女が今川家に嫁いだのもそういった事情に加えて、今川家は武家の中でも古くからの守護大名であり、また中御門家と今川家の間にあった親交ゆえともされています。

今川家に嫁いだ寿桂尼は氏親との間に長男の氏輝、次男の彦五郎、三男の義元、そして後に北条氏康に嫁ぐ瑞渓院を出産しています。夫の死後は嫡男となった氏輝を補佐し、その死後は跡を継いだ義元の政治を、桶狭間の戦い以後は義元の嫡男である氏真の後見人を務め、1568年に亡くなるその時まで今川家を支え続けました。

死の直前、寿桂尼は「死んだ後も今川の守護でありたい」と希望し、今川館の北東、鬼門の方角にあたる竜雲寺に埋葬されました。しかしこの年、武田信玄による駿河侵攻が始まり、戦国大名としての今川家は滅亡する事になるのですが…

※参照:武田信玄のプロフィールや風林火山の意味、その強さとは?

寿桂尼は何をした人物なのかを具体的に解説


それでは、寿桂尼は一体何をした人物なのでしょうか。
もう少し具体的に見ていきましょう。

まず夫である氏親の晩年、そしてその死後、今川家の政務に携わっていたと言われています。家督を継いだ嫡男の氏輝はまだ14歳でしたので、その後2年間、寿桂尼が氏輝の後見人としてその役割を務めていたと言われています。この間に発給された今川家の文書の印判は、寿桂尼が使用したものだと言われている他、今川氏の分国法である「今川仮名目録」の制定についても彼女が関与したと考えられています。

しかし氏輝が24歳でなくなり、次男の彦五郎も急死したため、三男で栴岳承芳と号していた義元を還俗させて家督を継がせようとします。これに反対した氏親の側室の子である玄広恵探との間にお家騒動が起きますが、義元の教育係である太原雪斎の活躍によって、自分の息子に家督を継がせる事に成功しています。

武田信玄とその正室である三条の方との縁談を斡旋したのも、この寿桂尼だという説があります。三条の方は公家の中でも摂関家に次ぐ清華七家の三条家の出自です。彼女が武田家に迎えられた1536年という時期とその出自から見て、寿桂尼の仲立ちがあったことは想像に難くありません。この他にも、自分の娘を北条氏康に嫁がせるなど、武田・北条との同盟関係において積極的に関与していたと思われます。

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寿桂尼の年表をわかりやすく解説


最後に、寿桂尼の年表を見ながら今川家の歴史を紐解いていきましょう。


・1490年頃(?)
藤原家の一族である、中御門宣胤の娘として生まれる。

・1508年
今川家当主・今川氏親に嫁ぐ。

・1513年
長男の今川氏輝が生まれる。

・1519年
三男の今川義元が生まれる。

・1526年
今川仮名目録を制定に関わったとされる。
夫の氏親が病死し、嫡男の氏輝が家督を相続。その後見人を努める。

・1535年
この頃、娘(瑞渓院)を北条氏康に嫁がせたとされる。

・1536年
武田信玄とその正室、三条の方との縁談に携わったとされる。
氏輝が急死。このため義元と玄広恵探の間でお家騒動(花倉の乱)がおこる。
義元が勝利して家督を相続する。

・1560年
桶狭間の戦いで義元が織田信長に敗れて討死する。
氏真が家督を相続し、その後見人を努める。

・1568年
寿桂尼が亡くなる。
今川館の北東にある竜雲寺に埋葬される。
武田信玄による駿河侵攻が始まり、その翌年、今川家は滅亡する。

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この記事のまとめ


このページでは今川義元の母親である寿桂尼がどんな人物だったのか、何をしたのかを、年表と共にご紹介しました。

女性の身で、さらに雅な公家から戦乱に明け暮れる武家に嫁ぐという逆境にありながらも、嫁ぎ先の今川家のために尽くした寿桂尼。死んでもなお今川の守りとなりたいと望んだ彼女の死の翌年、守護大名・戦国大名としての今川家は事実上滅亡してしまいます。もしも彼女が存命であれば、いったいどんな思いでその時を迎えたのでしょうか…

なお、以下の記事では今川家の家系図について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:今川氏真の人生や今川家の家系図を解説。家康との仲は良かった?