一昔前に「おんな風林火山」という武田信玄の五女、松姫をヒロインにした時代劇が放送された事がありました。つまり信玄には5人の娘がいた事になりますが、彼女たちはどのような女性だったのでしょう?今回は、武田信玄の5人の娘、つまり黄梅院・見性院・真竜院・菊姫・松姫の5人についてご紹介します。
目次
北条氏政に嫁いだ、長女・黄梅院の悲劇
まず最初に紹介するのが、長女の黄梅院(おうばいいん)です。
黄梅院は1543年に産まれました。母は信玄正室の三条公頼の娘です。そして1553年、父信玄が、今川義元・北条氏康との三国同盟を結ぶ過程で、氏康の嫡子氏政へ嫁ぐ事となり、その翌年に小田原へ輿入れしています。
その翌年には男子が誕生していますが、早世したといわれています。その後、1562年には、のちに北条家第5代当主となる氏直を産んだ他、その後も氏房、直重、直定という3人の男子を授かった事から、氏政との夫婦仲は良好だったと思われています。この時、父親の信玄がが黄梅院と生まれてくる子のために安泰を願って、浅間大菩薩に願掛けをした逸話も残されています。
しかし1568年、信玄が駿河へ侵攻したことによって三国同盟は破綻。武田家と北条家は敵対関係になったため、黄梅院は離縁させられます。その後は尼僧になったと言われてますが、氏政との別れがよほどショックだったのか、その翌年、わずか26歳でその生涯を閉じています。その後、武田家と北条家が再び同盟を結んだ際、夫の氏政は北条家の墓がある早雲寺に黄梅院の分骨を手厚く埋葬したと言われています。
次女の見性院が最後に育てたのは・・・?
続いて、次女の見性院(けんしょういん)についてご紹介します。
見性院の生年は分かっていないのですが、おそらく1545年か1546年頃の生まれと推定されています。母は三条公頼の娘です。1558年に信玄の姉の子供である穴山信君の元へ嫁ぎ、1572年には嫡子である勝千代を生んでいます。
武田家が滅亡した際、夫の信君は信長に投降したため助かりました。その後、徳川家康と共に信長のもとへ挨拶に行った時に本能寺の変が勃発。信君は本国へ帰ろうとした所、殺害されていました。そのため穴山家は嫡男の勝千代が継ぎましたが、1587年に病死してしまいます。その後、見性院は勝千代の画像を描かせ、供養をしたと伝わっています。
その後の穴山家は、信君の養女で、家康の側室となった下山殿が生んだ信吉が継承しました。しかし、信吉も1603年に死去してしまい、嗣子なく穴山家は断絶してしまいます。その後の見性院は武蔵へ移って尼僧となった他、徳川家の保護を受け、1611年には徳川秀忠の愛妾であるお志津の方が生んだ幸松丸(のちの保科正之)の養育を命じられています。田安屋敷で幸松丸を養育した後、江戸城北の丸に住居を与えられ、1622年に死去しました。
三女の真竜院は信玄の娘の中で一番長命!
三女の真竜院(しんりゅういん)は、木曽義昌の正室です。
1550年に産まれた真竜院。名前は真理姫と伝えられています。母親は信玄の正室である三条公頼の娘とも、あるいは側室の油川夫人とも言われていますが、どちらともハッキリしていないようです。
1555年、信玄は信濃と美濃〜飛騨(共に今の岐阜県)の国境を治めている木曽義康を傘下とし、その嫡男である木曽義昌に真理姫を嫁がせました。1577年には嫡男、木曽義利を産んだ他、その後も3人の子供を授かっています。しかし、1582年に信長の甲州征伐が始まると、夫の義昌は武田家を裏切ってしまいます。このため真竜院は夫と離縁する道を選び、三男の義通と共に木曽谷で静かに暮らしたと言われています。
その後、夫の義昌は下総国に転封されますが、その嫡男の義利は叔父を誅殺するといった暴挙が咎められ、1600年に改易されています。この時真竜院が著した、かつての嫁ぎ先の状態を哀れんだ書状が今でも残されています。その後、真竜院は1647年に98歳で亡くなりました。
四女の菊姫は武田家に対するイメージアップに貢献した!?
続いて解説するのが、上杉景勝の正室として知られる四女の菊姫です。
1558年に産まれた菊姫の母親は油川夫人で、兄弟には仁科盛信や松姫がいました。
1578年、武田家の当主である勝頼は上杉家の家督争いに介入し、その過程で上杉景勝の元へと嫁ぐ事となります。その翌年に菊姫は景勝の元へ嫁ぎますが、江戸時代に書かれた『奥羽永慶軍記』という資料によると、二人の夫婦仲は非常に悪かったという記載が残されています。その一方で、1604年に菊姫が47歳で亡くなる前、妻の回復を祈る景勝の行動が残されており、少なくとも公の場では夫婦仲は破綻してはいなかったのでしょう。
その一方で、菊姫に対する上杉家の人々の人気は高く、かつて対立していた武田家のイメージアップにも繋がったようです。その証拠として、信玄の7男である武田信清が上杉家の元へ逃れて来た際、上杉家は信清を召し抱えて厚遇したり、姉の真竜院の孫にあたる上松義次も「武田信玄の曾孫」として上杉家に召し抱えらえました。また豊臣政権下での菊姫は京都に住んでおり、公家との交流を行っていた事が知られています。
五女の松姫と織田信忠の関係とは?
最後にご紹介するのが、五女の松姫です。
1561年に産まれた松姫は、信長の嫡男である織田信忠の婚約者として知られています。信玄は1567年に、後継者である勝頼の妻となっていた信長の養女が死去した事から、それに変わる縁組として松姫を信忠へ嫁がせる事にしました。しかし、その後武田家と織田家は対立したため、1572年に松姫と信忠の縁組は破棄されています。
その後の松姫は兄の仁科盛信のもと、信濃国にある高遠城の近くで暮らしていたと言われています。武田家が滅亡した1582年には武田家の本拠地である甲斐の新府城、そして武蔵国の八王子へ逃走。この時信忠から迎えが来たので彼に会いに行こうとした所、本能寺の変が起きて信忠が自害してしまいます。そのため松姫は出家して、信忠と武田一族を弔う事となりました。
その後の松姫は八王子で隠棲しながら、寺子屋で子供への教育を行ったり、姉である見性院と共に保科正之の教育を行ったと言われています。こうした松姫の姿は、かつての武田家の家臣から構成される八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)と呼ばれる幕臣達の象徴として、1616年に亡くなるでその存在感を示しました。
※参照:武田信玄のプロフィールや風林火山の意味、その強さとは?
この記事のまとめ
今回は、武田信玄の5人の娘についてご紹介しました。
信玄の娘たちを見ていきますと、戦国乱世に翻弄された人生を送った人たちだと感じます。
上杉景勝の正室としてその生涯を終えた菊姫は例外ですが、政略結婚のため、親が敵同士になると離縁された黄梅院、夫・子の死去を見つつ保科正之の養育をした見性院、木曽義昌に嫁ぎ家の改易とともに木曽へ帰った真竜院、織田信忠と婚約しつつも親の不仲のために結婚できず一生を独身で通した松姫の生涯は、彼女たちが信玄の娘であることが大きく影響していると言えるでしょう。
戦国大名の娘として生まれた彼女たちは、自らの運命をどのように受け入れていたのか。
興味深い所ですね。