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真田幸村の兄にあたる松代藩初代藩主・真田信之。

今回はその次男でのちの信濃松代藩2代藩主・真田信政に焦点を当ててみたいと思います。さて信政やその兄弟とは一体どんな人物だったのでしょうか?

また信政の死後、松代藩はどうなったのかも気になるところです!
そこで最後に松代藩のその後についても解説したいと思います。
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真田信政ってどんな人?父・信之との確執とは?


まずは真田信政がどんな人だったのか、簡単に見ていきましょう。

真田信政は1597年に、父・真田信之の次男として生まれます。母親は本多忠勝の娘である小松姫(稲姫)で、母親が違う兄・真田信吉がいました。

信政の名が世に出たのは、病気療養中であった父の代わりに兄と共に大坂冬の陣・夏の陣に出陣したことがきっかけでした。しかし、冬の陣の際に豊臣側の先鋒隊と衝突して兄と共に敗走。命からがら逃げ帰ったものの、母からは「どちらか一人でも討ち死にしてくれたら真田家も忠義を尽くせたのに…」と言われてしまう始末。

その後、兄・信吉やその後継者であった甥が亡くなると沼田藩主となり、弟や兄の他の子たちに領地を分け与えたり旧領を譲るなどします。また、沼田藩主時代の信政は、新田開発や用水工事などに努め沼田の発展に尽くしました。

その一方で、父との関係は複雑だったと言われています。信之がなかなか隠居しなかったため、家督を先に亡くなった兄・信吉の系統に継がせようとしているのではないかと疑心暗鬼の念に駆られた事が、この親子の確執の原因だと言われています。しかし実のところ、信之は隠居しなかったのではなく、幕府から隠居を許されなかったようですね…

その信之も、90歳を過ぎてようやく隠居。家督を継いだ信政は松代藩の2代目藩主となります。しかし、そのわずか2年後(一説では半年とも…)に、晩年に産まれた幸道を後継者にとの遺書を残して父より先に亡くなってしまいます。その遺書には、確執があったとされる父・信之のことについては一切触れられていなかったと言われています。

老いてもなお盛んな父を持った息子ならではの苦労が、垣間見れるような気がしますね…

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真田信政の兄弟についてわかりやすく解説


先ほど、信政には兄がいるという事に触れましたが、あらためて信政の兄弟について見ていきましょう。

信政には兄の真田信政と、弟にあたる真田信重がいました。

兄の真田信吉は、信之と清音院殿(真田丸では「おこう」と呼ばれています)の間の子、弟の信重は信政と同じ正室・小松姫の実子と言われています。ただ、信吉の母親も小松姫ではないかともいう説があり、その詳細は定かではありません。

真田信吉は信政と同じく、大坂の陣に従軍するも、弟と共に豊臣方に敗れて逃げ帰ったと言われています。その後は父・信之が沼田城から上田城に移ったのを機に、24歳で沼田城主3万石となりました。しかし信之が長命であった事から家督を継ぐ事はなく、父や信政に先立って42歳で死去してしまいます。

また、信政の弟の真田信重ですが、長兄である信吉の死後、兄である信政が沼田藩主となった事からその領土をゆずられ、信濃にあった埴科藩の2代目の藩主となってます。譜代大名である鳥居忠政の娘を正室に迎えたものの、こちらも49歳の若さで信之や信政に先立って亡くなりました。

信重がおさめていた埴科藩は、跡取りがいなかったため断絶。
その領地は松代藩に返還されています。

信政死後の真田家はどうなった? 松代藩のその後について!


60歳頃にようやく家督を継ぐことができた信政でしたが、正式な相続から2年で死去してしまいます。当時の60歳と言えば亡くなってもおかしくはない歳である気もしますが、やはり93歳まで生きた父・信之と比べると短命に感じてしまいますよね。

さて、真田信政死後の松代藩はどうなったのでしょうか。

信政には、子供が10人程、そして男子が5人(あるいは6人)居たと言われています。しかし確執や子供同士の不仲、早世などによって跡継ぎがなかなか決まらず、晩年に産まれた真田幸道が、遺言によって松代藩の家督を継ぐ事になりました。

当時、隠居していた信之もこれを幕府に申請しますが、これをよしとしなかったのが信政の兄・真田信吉の嫡男で沼田城主の真田信利です。

その背景には、真田家の本流が松代藩に移ってしまうことに信利が反発を覚えたと言われており、これが俗に言う「真田騒動」の発端です。

松代藩の3代目藩主の座を狙う信利は、幕府に対して裏でいろいろと裏工作を行うのですが、信之も譲らず松代藩内は混乱状態に。挙句の果てには、松代藩内の家臣からも信利を擁立しようとする動きが出てきてしまいます。こうした状況を収めるためにも幕府も介入を行い、信之の意向を受け入れる形で信政の息子・幸道が松代藩3代目藩主となりました。

その一方で、松代藩の藩主になり損ねた信利は沼田藩として独立。しかし、松代藩に対抗するために豪華な屋敷を建築するために領民に重税を課した結果、民衆の不満を高める結果となってしまいました。これを重く見た幕府は沼田藩を改易、信利を山形藩へお預けとします。

また、松代藩3代目藩主となった幸道は男児に恵まれなかったため、兄・つまり信政の長男で跡取りから除外されていた信就の七男・信弘を継嗣に迎え4代目藩主とさせました。その後の松代藩は、跡取りが途切れるものの他家から養子を迎えて存続。明治時代に入り廃藩置県が行われるまで続いていく事になります。

この記事のまとめ


真田信政がどんな人だったのかをメインに、その兄弟や松代藩のその後を解説しました。

大坂の陣では敗戦し逃げ帰ったと言われるものの、沼田藩主時代には新田開発などに力を入れ、父との確執を抱えながら高齢で松代藩主となったものの、そのわずか2年で死去した人物です。

信政は3人兄弟の真ん中にあたるのですが、兄の信吉、弟の信重の家系は断絶。しかし信政を跡を継いだ藩主たちによって松代藩はその後も存続し、明治時代の廃藩置県を待つ事となります。

しかし、父親が長生きすると、子供も色々と苦労するものなんですね…

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